行いによって完成される信仰        ヤコブの手紙2章20~26節

2024年2月4日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 今日の箇所は聖書学者たちを悩ませてきた箇所です。ヤコブはこの中で人は「行いによって義と認められる」と繰り返し教えています。このことばが、「信仰によって義と認められる」と教えているパウロの主張と、矛盾しているように見えるからです。
 神学議論に注目する前に大事にしたいこと、それは聖書の文脈に沿って丁寧に読んでいくことです。まずパウロとヤコブの主張の違いにではなく、共通の点、二人が共に「義と認められる」と教えている点に私たちは注目したいと思います。

【1】 義と認められる恵み
 「義と認められた」とは、義ではない罪人である私たちが、それにも関わらず神に受け入れられた事実を表しています。それは死刑囚だった私たちが、神の法廷で審判者なる聖なる神から、無罪宣告を受けたことを意味します。
 どうしてそんなことが起こり得るのでしょうか。主イエス・キリストが私たちのすべての罪を背負い、私たちの身代わりとなって神にさばかれたからです。ですから「義認」ということばそのものが、神の大きな恵みを表しているのです。
 それは罪人であっても義と認められる、ということです。ヤコブがこの箇所で紹介しているアブラハムもラハブも罪人でした。彼らも神の恵みを受けて義と認められたのです。
 私たちは信仰者になるために立派な人になる必要はありません。ただ神の恵みによって義と認められた事実を受け入れましょう。

【2】 行いによって義と認められる
 ヤコブはこの箇所において繰り返し「行いによって義と認められる」と教えました。「行いによって義と変えられる」と教えているわけではない点に、私たちは注目したいと思います。
 信仰者たちの中には義とされるため、義と変えられるために行いが必要だと考える人々もいます。私たちの成長のために行いは欠かせないし、行いの蓄積によって私たちは信仰者として成長していく、と彼らは考えます。多くの宗教で共有されている教えだと思います。
 ただしそれは私たち人間のプライドを刺激する教えであり、その一方でうまく成長できない人々にとっては劣等感を深めてしまう教えでもあります。罪人としての自分の姿に惨めさを募らせてしまう信仰者にとっては、いつまでたっても成長できないことが逆に、苦しみになってしまうのです。
 私たちは、聖書で教えられている真理が「義と変えられる」ではなくて「義と認められる」である点に注目しなければなりません。義と認められるために、人間としてどれだけ成長し成熟できたかは関係ありません。罪人のままで私たちは「義と認められる」のです。その大きな恵みを知らされた時に、私たちのうちに生まれてくる行いがあるのです。

【3】 信仰によるのか、行いによるのか
 さてそれでは私たちは果たしてパウロが語っているように「信仰によって義と認められる」のでしょうか。それともヤコブが教えているように「行いによって義と認められる」のでしょうか。
 これらの二つを分けて考えること自体が間違いです。なぜならばヤコブは今までの箇所で、信仰があればそこには当然行いが伴うし、行いがもしなければそれは信仰そのものがない、と教えてきたからです。つまり信仰と行いは一つにつながっています。この二つを分けて考えることはできないのです。
 ヤコブも続けて教えています。「あなたがたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました(22)」。私たちはまず信じて義と認められました。しかし、それだけではありません。行いによっても義と認められます。それは、わたしたちの神を信じる信仰が、行いによって完成したことを表しているのです。

【4】 行いによって完成される信仰
 アブラハムは主を信じたことにより、義と認められました(創世記15:6)。彼はまず信仰によって義と認められ、神に受け入れられました。しかし一度、義と認められた信仰は彼の行いによって完成に至りました。
 アブラハムはある時、自分の息子イサクを全焼のささげ物として献げるようにと神に命じられました。彼はもちろん神を信じていました。信仰者としてずっと歩んできました。しかしこの時彼は、神に本当に心から信頼しているのか、その信仰を試されたのです。
 そしてアブラハムは見事にそのテストに合格することができました。彼は神を信じました。人間にはわからなくても、神には何らかのご計画があること、そして神は息子イサクを必ず死者の中からよみがえらせることができる、と信じたのです(へブル11:9)。行いによってアブラハムの信仰は具体的に表され、完成に導かれたのです。
 私たちも信仰者です。しかし信仰の中身が問われています。神を信じている私たちは本当に神に信頼しているのでしょうか。偉大な神に目を留め、私たちの心を開き、主に信頼しましょう。みことばに聞き従う者としていただきましょう。