感謝と喜びの生活 使徒の働き16章25~31節

2024年1月7日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(山村 英夫師)

 パウロとシラスのピリピでの経験を通して感謝と喜びの生涯についてみていきます。
パウロの伝道旅行はアジアを皮切りに始まり、第二回目の伝道旅行でその足をヨーロッパへとのばしていきました。16章ではヨーロッパに入っての最初の働きがピリピで行われたことが書かれています。そしてこの町でパウロとシラスは大変な経験をすることになりました。
まずこの町で起こったことを見ていきましょう。16節~26節に書かれていることはパウロとシラスはこの町で一人の若い占いの霊に着かれた女性に出会い、その女性から占いの霊を追い出したことです。そのことが大変な結果をもたらすことになり、二人は鞭で打たれ投獄されてしまいました。25節~で獄舎の中で起こった驚くべきことが明らかにされています。パウロとシラスはその日、自分たちの身に降りかかってきた出来事を思い起こしながら、なんと神さまに祈り、さんびをしていたのです。自分たちが投獄されたのは不当なことであり鞭打たれたことも不当なことでした。実につらいことであったと思います。
いろいろな面で苦しい中にあったのですが、彼らが牢獄の中で行ったことはなんと感謝と喜びでした。不当な取り扱いを受けたのですから恨み言の一つが口をついて出たとしても不思議ではない状況でした。こんな状況の中にあってさえ、感謝をすることができたのです。なんと驚くべきことでしょうか。さらに牢獄の中にいた他の囚人たちが二人のさんびと祈りにじっと聞き入っていたというのですから、さらに驚くべきことです。実にすばらしい雰囲気がこの中に漂っていたことでしょう。二人は自分の身に起こった現実を受け入れ、それを感謝と喜びに変えていたのです。それではなぜ二人はこんなに厳しい現実を受け入れ、それを感謝と喜びに変えることができたのでしょうか。それはパウロの身に起こった出来事によるものでした。パウロは自分のことをテモテへの手紙の中で「罪びとのかしら」と言っています(Ⅰテモテ1:15)。使徒の働き9章では次のように書かれています。パウロはクリスチャン達を捉えエルサレムに引いてくることに自分のすべてをかけていました。その目的を達成するためにダマスコの町までやってきて、そこで一人でも多くのクリスチャン達を捕まえようとしていたのです。ダマスコに入るその直前にパウロは主イエスと出会い、自分の罪を知らされ、悔い改めて主イエスを受け入れるものとされたのです。この時の経験が後のパウロを作り上げるきっかけになりました。パウロはまず自分がとんでもない罪びとであったことを知らされたのです。罪とは的を外れた生き方をすることです。主イエスを通して神さまの方に向かっていく目的からはずれてしまっている生き方です。そのまま進んでいけば神さまという的に向かっていく事はできず、死と滅び、つまり神さまの裁きを受けるしかないということです。ですから向きを変えなければ的外れな方向に自分自身の歩みを進めていく事になるのです。悔い改めた結果、私たちはパウロと同じように救われるのです。救われるとは単に滅びからまぬかれるものではありません。主イエスを通して神さまがその人と共にいて働いてくださるということです。これが救われるということです。救われた結果、パウルの身に何が起こったのでしょうか。二つのことが起こりました。
① パウロは滅びから永遠のいのちへと導かれたことです。パウロがローマ人への手紙6章23で言っていることです。
②この地上の歩みにおいて神さまがいつも私たちと共にいて助けてくださるということです。
私たちはパウロと同じように自分の身に降りかかってくる現実を受け入れることができるようになる
のです。その結果として感謝と喜びへの生涯へと導き入れられるのです。