行いのない信仰は無益        ヤコブの手紙2章14~20節

2024年1月28日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 ヤコブの手紙の読者である信徒たちは各地に離散し、それぞれの地で様々な試練にあっていました。その貧しさのゆえに、富んでいる人たちから虐げられたり、迫害されたりしました。彼らは虐げや迫害という目に見える外側からの闘いと、自らの心が憎しみや恨みに捕らわれてしまうという目に見えない内側の闘いの両方と闘っていたのです。その苦しみの中で穏やかな心がかき乱され、信仰と行いが分離してしまうこともありました。

【1】 行いのない信仰
 ヤコブは彼らに語りかけました。「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか(14)」。信仰者であっても、そこにもし行いが伴っていないのなら、その信仰は役に立たない、と言いました。さらに、そのような信仰はその人を救うことができないし、死んだものだし(17)、無益である(20)とまで言っています。
 ここでもヤコブは具体的な事例を紹介しています。着る物や食べる物に困っている兄弟か姉妹を見て、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と優しく語りかけても、もしその先に具体的な行動がなければ、何の役にも立ちません。役に立たないだけでなく、それは偽善です。ヤコブが語っている通りに、そのような行いが伴わない信仰は、いのちがない死んだ状態なのです。
 私たちの信仰は果たしていのちのない、死んだ信仰になっていないでしょうか。かつてベタニヤでマリアがナルド油の入った壺を割って、その中の香油をイエス様の頭に注いだ時、イスカリオテのユダは「この香油なら、300デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに」と言いました。まるでユダは貧しい人々に対するあわれみの心を持っていたかのようです。しかしユダは香油を無駄にしたように見えるマリアに対して、憤慨しただけでした。貧しい人々に対する思いなど、少しも持っていなかったのです。
 私たちの信仰はユダのような信仰になっていないでしょうか。本当に生きている信仰でしょうか。死んだ状態になっていないでしょうか。

【2】 信仰と行いの分離
 信仰者である私たちが注意しなければならないこと、それは私たちの信仰と行いが分離してしまうことです。
 ヤコブは続けて言いました。「『ある人には信仰はあるが、ほかの人には行いがあります』と言う人がいるでしょう(18)」。「信仰が大事である」と主張する信仰者がいる一方で、「行いが大事である」と主張する人々もいます。私たちには、信仰を重んじる一方で善行を軽んじてしまうことがあります。その一方で行いは大事にするのに、信仰を失ってしまうこともあります。信仰と行いが私たちの中で分離してしまうのです。
 しかしヤコブは「行いのないあなたの信仰を見せてください」と問いかけました。それはあり得ないと言う意味です。行いのない信仰などあり得ないのです。信仰があれば必ず行いがそこにあります。信仰があると言っていながら、もしそこに行いが伴っていないとするならば、信仰そのものがないのです。
 逆に信仰があれば必ず行いがそこに伴います。ヤコブのように「私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます」と私たちは言うことができます。私たちの信仰は行いによって証しされるからです。

【3】 神に対する信頼
 なぜ信仰と行いが私たちの中で分離してしまうのでしょうか。それは私たちの信仰が知識だけの信仰になってしまうからです。ヤコブは19節で「あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています」と教えました。彼らは神が唯一真の神であることを知っていました。神についての正しい知識を持っていました。その意味で彼らは神を信じていました。しかしそれは悪霊たちも信じていることでした。知識を持っているという点では悪霊たちと何も変わらなかったのです。
 私たちの信仰がもしいのちのない死んだ状態になってしまうとするならば、それは知識だけの信仰になってしまい、神に対する信頼を失っているからです。神とのつながりが絶たれ、神との生きた交わりが十分に経験されていないからです。それゆえに私たちの信仰は独りよがりとなり、感謝を失い、すぐに人をさばきやすくなってしまうのです。

【4】 むすび
 「この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう(Ⅰヨハネの手紙3章17~18節)」。
 兄弟たちが困っているのを見てもあわれみの心を閉ざしてしまうのは、神の愛がその人の中にないからです。愛の神との交わりが絶たれてしまって、どうして私たちは人を愛することができるのでしょう。私たちが行いと真実をもって愛するために、神との愛の交わりを大切にしていきましょう。