ふさわしく語り、ふさわしく行う      ヤコブの手紙2章8~13節

2024年1月21日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 2章12節でヤコブは「ふさわしく語り、ふさわしく行いなさい」と命じました。キリスト者としてふさわしく語り、ふさわしく行いなさい、という意味です。ヤコブは「えこひいきしてはならない」という具体的な例から始めて、今日の箇所で結論を述べています。律法の中で最も大事な教えを伝えました。

【1】 最高の律法
 ヤコブは「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」というレビ記19章18節のみことばを引用した上で、この律法を守るなら、あなたがたの行いは立派です、と彼らを励ましました。これは、「あなたがたの心を復讐心や恨みに支配させず、隣人への愛でいっぱいにしなさい」という意味の教えです。
 イエス様は「これらよりも重要な命令はほかにありません」と教えました(マルコ12の31)。パウロも、「この一つの律法ですべての律法が全うされます」と教えました(ガラテヤ5の14)。まさにこれは律法の全体を言い尽くす、「最高の律法」だったのです。その最高の律法を守ったら、確かにそれは立派です。
 これが私たち信仰者の目標です。私たちはいつも、隣人を自分自身のように愛さなければなりません。それが主のみこころなのです。

【2】 律法の違反者
 しかし、私たちは人を自分自身のように愛することができません。すぐに、えこひいきをしてしまいます。それが、私たちの現実です。ヤコブは「もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます(9)」と続けました。
 「違反者」と断定されてしまった時、私たちは普通、それを認めたくないものです。ところが、そんな傾向をもつ私たちに対してヤコブは容赦ありません。律法全体を守っても、一つの点で過ちを犯すなら、すべてについて責任を問われてしまうこと、一つの過ちだけで十分に律法の違反者になっているのだ、と語りました(10~11)。つまり完璧でありなさい、ということです。
 しかもヤコブは最後に「あなたは律法の違反者になっているのです」と断言しました。「あなたがたは」ではなく「あなたは」と語り、読者一人ひとりに個人的に迫るように話しかけていることがわかります。
 このヤコブの迫りは律法の迫りであり、神の迫りでもあります。聖なる神は私たちのたった一つの罪も見過ごしません。一つの違反も許されません。何と厳しいことでしょうか。私たちはとても神の要求に応えることができないのです。

【3】 自由をもたらす律法
 ところがそんな彼らに対してヤコブは「ふさわしく語り、ふさわしく行いなさい」と命じました(12)。人には絶対にできないことを、ヤコブは要求しているように感じられます。しかし、ヤコブは「自由をもたらす律法によってさばかれることになるものとして、ふさわしく語り、ふさわしく行え」と命じました。
 このことばより律法について二つのことを教えられます。第一に私たちは、やがてこの律法によってさばかれる、ということがわかります。私たちはやがて審判者なる神の前に立たされる時がきます。その時にこの律法によってさばかれてしまいます。しかも、そのさばきは実に厳しいものです。あわれみを示したことがない者に下されるさばきは、あわれみのないさばきだからです(13)。
 しかし二番目に、この律法は私たちに自由をもたらすことがわかります。どのようにしてこの律法は、私たちに自由をもたらすのでしょうか。ガラテヤ3の24でパウロは「律法は私たちをキリストに導く養育係となりました」と教えています。私たちは律法の下で監視され、罪の支配の中に閉じ込めていたのですが、その律法が私たちをキリストの下にまで導いたのです。
 絶望の中で私たちはキリストと出会い、キリストの十字架を仰ぎました。私たちの身代わりとなって死んでくださったイエス様を信じました。その時に私たちは救われ、律法の支配から解放され、自由になりました。律法はそのようにして私たちに自由をもたらしたのです。

【4】 むすび
 救われた後も、信仰者らしくふさわしく語り、ふさわしく行わなければならない、と感じている人がクリスチャンの中にも時々おられるようです。聖書の教えを道徳や倫理として考える人もいます。信仰者になったら、信仰者としてのふさわしさが求められていると思ってしまうのです。
 しかし、そのふさわしさは自分の努力では決して生まれてきません。自分でふさわしくなれると思っているとするならば、それはその人の高ぶりです。聖書が求める信仰者としてのふさわしさは、みことばによってもたらされます。私たちがみことばを一心に見つめる時に、そのように導かれるのです。
 みことばが私たちの心の内側をはっきりと示し、私たちをキリストの下に導きます。そこでキリストの十字架を仰ぎ、信じる者へと変えられます。その時、キリストの愛が私たちを自由にします。私たちはもはや外側の規律や圧力に支配されて生きるのではありません。私たちの内側に与えられた愛によって、ふさわしく語りふさわしく行うのです。それは私たちに注がれた神の愛が、私たちの内に引き起こす奇跡なのです。