えこひいきしてはならない        ヤコブの手紙2章1~7節

2024年1月14日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 2章1節でヤコブは「人をえこひいきすることがあってはなりません」と語りました。ヤコブは1章にて「みことばを行う人になりなさい(22)」と命じ、行うが伴う信仰の大切さについて、教えていました。行いを伴う信仰の実例として、えこひいきの問題がここで取り上げられていることがわかります。

【1】 えこひいき
 えこひいきとは何でしょうか。それは人の外見や社会的身分、貧富の差などで差別をもうけ、人をさばくことです。その具体的な例が2~3節で語られています。
 二人の人が集会に別々に入ってきました。一人の人は金の指輪をはめた立派な身なりをした人でした。もう一人の人はみすぼらしい身なりの貧しい人でした。もし彼らが立派な身なりをした人に対して「良い席にお座りください」と丁寧に語る一方で、貧しい人には「立っていなさい」「私の足もとに座りなさい」と言うならば、その態度はえこひいきです。それは自分たちの間で差別をし、悪い考えで人をさばく者となった、とヤコブは指摘しています(4)。
 ヤコブが用いたこの話はとても具体的です。そのような場面が当時の教会では実際に見られていたのだと考えられます。
 私たちが聖書を読む時も具体的、現実的、実際的に読む必要があります。私たちが罪人としてのどんな課題と傾向を抱えているのか、人に対してどう接してしまうのか、そのような自覚とともにみことばに耳を傾ける時、みことばが自分に語られている神の声として聞こえてくるのです。
 
【2】 信仰者にとってふさわしくない
 人をえこひいきすることは、どうしてよくないのでしょうか。ヤコブは1節で「あなたがたは、私たちの主、栄光のイエス・キリストへの信仰を持っていながら、人をえこひいきすることがあってはなりません」と語りました。イエス・キリストへの信仰を持っていることと、人をえこひいきすることは全く釣り合いません。つまり、人をえこひいきする態度は信仰者にとって、全くふさわしくない態度なのです。
 イエス・キリストに無条件に愛されているのに、イエス様と出会って愛を知ったのに、その私たちが人をえこひいきするなんて考えられません。しかも、イエス・キリストは「栄光の主」です。栄光の輝きをもっている方です。この世の輝きに惑わされて人を差別したら、それはイエス様の栄光を汚すことです。それゆえに私たちは人をえこひいきしてはならないのです。

【3】 神の選び
 とは言え、この世にえこひいきしない人なんているのでしょうか。「どんな人でも平等に愛することができる」と言える人は、この世に一人もいません。キリスト者である私たちも多かれ少なかれ皆、人をえこひいきしているのです。どうすればよいのでしょうか。
 そんな彼らをヤコブは5節で「私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい」と励ましながら語りかけました。そしてそこでヤコブが教えたこと、それは神に注目しなさい、神がどんな方か知りなさい、ということ。特に私たちに何をしてくださったのかに注目しなさい、ということでした。
 神は、この世の貧しい人たちを選んでくださいました。私たちが選ばれたのは、私たちが富んでいたからではなく、貧しかったからです。しかもそんな貧しい私たちを神は信仰に富む者とし、さらに約束された御国を受け継ぐ者としてくださいました。
 ここでヤコブが語っていることを一言で言い表すならば、「あなたがたは富んでいる」ということです。実際には乏しかったかもしれませんが、信仰において彼らは豊かでした。そしてやがて御国を受け継いでもっと富む者にされる、と彼らに与えられている豊かさについて、ヤコブはここで教えたのです。

【4】 むすび
 6~7節を読むとヤコブの手紙の読者たちの多くは、貧しかったということに気づかされます。離散の民として方々に散らされた彼らは、その置かれた場所で経済的な確かな基盤を持たず、貧しい生活を強いられていたと考えられます。それが理由で富んでいる人々から虐げられたり、裁判所に引いて行かれたり、「キリスト者」としての名前を汚されるような辛い経験をしていたことがわかります。
 貧しさのゆえにそのような辛い経験をしていた彼らが、もっと貧しい人たちをえこひいきしてしまったら、結局は彼らを虐げている人々と同じではないでしょうか。それは、やられた同じことを、もっと弱い人々にやり返すという矛盾した行為ではないでしょうか。ここに私たちの生身の人間としての姿、殺伐として冷たいこの世の現実が示されています。私たちはこの世の歪んだ価値観に苦しめられながら、しかし、その歪んだ価値観にしっかりと支配されているのです。
 どうすれば私たちはこの支配から断ち切られ、自由に生きることができるのでしょうか。それはみことばに信頼し、みことばに示される神の国の力に生かされることです。神の愛とイエス・キリストの十字架の贖いが私たちを自由にし、みことばを行う人へと私たちを変えてくださるのです。