朽ちるものが、朽ちないものへ コリント人への手紙第一15章50~58節

2023年9月24日 飯能キリスト聖園教会 帰天記念礼拝説教要約(若井和生師)

 本日の帰天記念礼拝に際し、与えられている聖書の箇所より三つのことを覚えたいと思います。それは①私たちは皆、朽ちていくということ、②しかし朽ちない道が開かれていること、そして③それはイエス・キリストによって与えられる恵みである、ということです。

【1】 朽ちるものが
「兄弟たち、私たちはこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続することはできません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。(50)」 

 血肉のからだ、そして朽ちるものは神の国を相続できない、とのこと。私たちは皆、いつかは朽ちていく存在であることが示されています。
 「朽ちる」とはどのような意味でしょう。それは木や草や花が枯れたり、しおれたりしていのちの輝きを失うこと、そして最後に死ぬことを表しています。同様に私たちもいくら元気でもどんなに丈夫でも、時間とともに朽ちていきます。そして最後には死んでしまうのです。
 私たちは普段そのことを、考えないようにしています。敢えて話題にしたり触れたりもしません。どうしてでしょう。私たちは心の底で死を恐れているからです。私たちは誰もが無自覚的に死の恐ろしさを知っています。もし死が恐ろしいものでなければ、私たちはもっと自然にもっと普通に自分の死と向き合えるはずです。それができないのは死そのものの恐ろしさを薄々感じているからです。
 よって私たちの多くは死そのものには向き合わずに、生きることばかり考えます。享楽的な生き方に走る人もいれば、虚無的になってしまう人もいます。「いつ死んでもいいように、一日一日をしっかり生きよう」と前向きな生き方を選択される方もいることでしょう。ただし、それによって死を遠ざけているのではないでしょうか。
 聖書は私たちにはっきりと語ります。「人はみな草のよう、その栄えは草の花のようだ。草はしおれ、花は散る(Ⅰペテロ1の24)」 私たちは死そのものと向き合う必要があるのです。
 
【2】 朽ちないものへ
 ただし私たちが死と向き合えるのは、実はその先に希望が約束されているからです。「死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです(52)」。朽ちるものが朽ちないものに変えられる道があり、その時がやがてやって来ることが、ここで示されています。
 それはいつでしょうか。終わりのラッパが鳴り響く時、つまりイエス・キリストの再臨の時です。その時には死者は朽ちないものによみがえり、いのちあるものも一瞬で変えられると約束されています。その時に朽ちるべき私たちは、朽ちないものを着ることになります。私たち自身が別の人間になるわけではありません。しかし、全く新しい永遠の肉体が私たちに与えられるのです。そしてそれは死が勝利に呑み込まれる時です。私たちの最後で最強の敵である死はその時、滅ぼされるのです。

【3】 イエス・キリストによって
 そのような勝利はどのようにして与えられるのでしょうか。「神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました(57)。」 イエス・キリストが十字架にかけられ私たちの死の原因である罪を背負って死んでくださいました。
 私たちは実は「朽ちるもの」だけでなく、「朽ちるべきもの」でした。朽ちるように定められていたということです。せっかくこの世に生まれてきた私たちが朽ちるように定められていたなんて、これほど無情なことはありません。しかしすべての人が罪を犯したために私たちは死に定められてしまいました。そんな私たちのためにイエス・キリストが私たちの罪を背負って十字架にかかり、私たちの身代わりとなって神にさばかれたのです。
 さらに、その三日後に死を打ち破って復活されました。このイエス・キリストを信じる時に、私たちにイエス様の復活のいのちが与えられ、朽ちるべきものだった私たちが、朽ちないものへと変えられるのです。

【4】 変えられた者に与えられるつとめ
「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから(58)」

 イエス・キリストによって朽ちないものへと変えられた者には、この世で果たすべきつとめが与えられていることがわかります。それは堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励むこと。
 私たちの周りには死を恐れている方々が多くいます。その人々の中にあって、復活の希望を抱きつつ歩むこと、死の先に復活の希望があることを指し示すこと。そのような希望のメッセージが今、どれだけ求められていることでしょうか。朽ちるものから、朽ちないものへと変えられた恵みに生かされていきましょう。