欲と罪と死             ヤコブの手紙1章12~15節

2023年9月17日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 試練に耐える人の幸い
 離散した先で「様々な試練(2)」にあっていた信仰者たちを励ますために、ヤコブはこの手紙を書きました。前置きもなしに最初に語ったみことばは驚きのことばです。「様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい(2)」。どうして試練の苦しみの中で喜ぶことができるでしょうか。しかし、その根拠をヤコブは一つ一つ提示していきました。
 まずは試練の時は信仰が試される時だからです。そして信仰が試されると忍耐が生まれます。その忍耐を完全に働かせる時に成熟と成長が与えられます。さらに求める時に必要な知恵も与えられます。そのようにして彼らは試練の時に喜びを見出すことができたのでした。
 その上でヤコブは「試練に耐える人は幸いです(12)」と語りました。ここで「幸い」と訳されていることばはイエス様が山上の説教で「幸いなるかな。心の貧しい者」と語られたのと同じ「幸い」です。つまり、これは神との関係において祝福を受けるという御国の幸いなのです。
 試練に耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けます。試練の中にあって尚も神を愛そうとしたその信仰を、主はすべてご覧になっています。そして御国にたどりついた時に豊かに報いてくださいます。勝利者としてのしるしである「いのちの冠」を、私たちの頭にかぶらせてくださるのです。
 
【2】 苦しみを誘惑と受け止める人のわざわい
 このように試練の中で忍耐を働かせる時に、数々の祝福が約束されていることがわかります。ところがそれに続く13節でヤコブは語りました。「だれでも誘惑されているとき、神に誘惑されていると言ってはいけません。」 「誘惑」と訳されていることばは「試練」と訳されていることばと同じです。これは同じ苦しみが試練にもなり、誘惑にもなり得るということを表しています。苦しみの中で「神に誘惑されている」と感じる人々が多くいた、ということがわかります。
 神に誘惑されている人は、苦しみの原因が神にあると考えます。「神を呪って死になさい」とヨブに向かって語ったヨブの妻のように、神が自分を苦しめていると思い込み、神の愛を疑い、神の救いを信じず、神に失望してしまうのです。
 そんな人々に向かってヤコブは「神は悪に誘惑されることのない方」であり、「ご自分でだれかを誘惑することもない」こと、つまり神は誘惑とは無縁の方であることを語りました。そして人が誘惑にあうのは、自分の欲に引かれ、誘われるからであるという事実を伝えました。
 欲そのものが悪いわけではありません。欲自体は人間の生活を豊かにするために必要なものです。よってキリスト者は禁欲主義者ではありません。問題なのは私たちが欲に引かれ、誘われてしまうことです。
 ヤコブは続けて語りました。「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」 欲がはらんで罪を生んでしまう過程があります。「はらむ」と訳されていることばは、女性が妊娠するという意味です。母親が赤ちゃんをお腹の中に身籠るように、欲が母親のように妊娠し、罪を生んでしまいます。罪は生まれる前、かたちになって現わされる前にすでに私たちの内側に潜んでいることがわかります。
 そしてその罪が今度は熟して死を生みます。「熟する」と訳されていることばは「結末に至る」「完成する」という意味のことばです。罪が放置されたまま成長してしまう過程が意識されています。途中で何の処分もなされないままに放置され続けると、 罪は熟して死に至ります。つまり欲がもたらす悪循環に私たちは陥ってしまうのです。

【3】 むすび
 苦しみに直面する私たちの前に、二つの道が開かれていることがわかります。それは苦しみを試練として受け止める道と、苦しみを誘惑として受け止める道です。もし私たちが苦しみを試練として信仰をもって受け止めるならば、その先に与えられるのは忍耐と成熟、成長といのち。祝福にあふれた人生へと私たちは導かれていくことがわかります。
 ところがもし私たちが苦しみを誘惑として受け止めるならば、その先に待っているのは欲に引かれて罪をはらみ、罪が成熟して死を生むわざわいの人生であることがわかります。一方はいのちに続き、もう一方の道は死に至ります。私たちはどちらを選ぶのでしょうか。もちろん試練として信仰をもって受け止める道です。
 これはイエス様によって示された道です。イエス様も苦しみの人生を忍耐とともに歩んで行かれました。その過程で成熟と成長を経験し、そして最後は神によって引き上げられ栄光の座へと導かれていきました。そのイエス様によって示された道を私たちもたどっていくのです。
 試練を通して私たちは御国の幸いを経験させてもらえます。その機会を私たちの不信仰によって台無しにしてしまうことがありませんように。試練の中で与えられる主の喜びに満たされていきましょう。