疑わずに信じて求める          ヤコブの手紙1章5~11節

2023年9月10日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 ヤコブは離散している信仰者たちに、試練の中でも喜びを見出す道が開かれていることを教えました。試練とは信仰が試される時であり、試練を通して忍耐が与えられ、その忍耐が成熟と成長をもたらすからです。
 ただ信仰者たちはもっと現実的な必要も求めていたことでしょう。直面している困難にどう対処したらよいのか、具体的な知恵が必要だったのです。それは神から与えられるものです。そこでヤコブは祈にについて、次に教えました。

【1】 求めなさい・・・神に対して
 ヤコブは5節、6節で二度「求めなさい」と語り、試練の中で祈ることの大切を教えています。誰に求めるのでしょうか。もちろん神に対してです。ところが私たちは神に求めることをあまりしません。目に見えない神よりも、目に見える人間の助けを優先的に求めてしまうのです。神を求めるために必要なことは何でしょうか。
 第一に、自分の無力さを知ることです。ヤコブは「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら…神に求めなさい」と語っています。知恵に欠けているとの自覚のある人、自分の無力さを知っている人だけが、神を求めることができます。自分を知恵者だと思い込んでいる人は、決して神を求めません。よって私たちは自らの無力さをわきまえる必要があるのです。
 第二に、神を正しく理解することです。私たちは私たちの神がどのような方であるかをあまり知らないために、神を積極的に求めようとはしません。神はどのような方でしょうか。ヤコブによると神は、「だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる」方です。
 神は求める者には惜しみなく豊かに与えてくださる方です。求めた以上のものをもって私たちに返してくだいます。さらに私たちを決してとがめません。私たちは神の前にふさわしくない罪人としての自分自身を意識すると、神に対してあまり積極的になれません。神に責められてしまうと不安を抱いてしまうからです。しかし、神は自らに近づく者を決して責めたり、とがめたりしません。
 神に対して私たちが求めたらどうなるのでしょう。「そうすれば与えられます」と教えられています。求めれば、必ず与えられます。それが神の約束です。私たちは神に向かって安心して、もっと積極的に求めていこうではありませんか。

【2】 求めなさい・・・疑わずに信じて
 どのように神を求めたらよいでしょうか。「少しも疑わずに、信じて求めなさい」と教えられています。疑う人は風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。時代の風に、状況の変化に、人の反応にすぐに翻弄されてしまいます。そのような人は主から何かいただけると期待することはできません。
 さらにその人は「二心を抱く者」です。「信仰」と「不信仰」が一つの心の中に同居しています。ある面では神を信じているのに、心に深いところで神に対する不信仰を隠し持っているのです。それゆえに何か困難に直面すると、すぐに不安になってしまいます。心が定まっていないからです。
 私たちは立ち止まって神の前に静まり、「二心」を抱いてしまっている自分をよく自覚する必要があります。そして、悔い改めて神に信頼することが求められているのです。

【3】 この世へのこだわりと富の誘惑
 なぜ私たちは「二心」を抱いてしまうのでしょうか。それは神を信じながらも、この世に対する愛着を捨てきれないからです。この世の地位、名誉、社会的立場、富などが神に対する真実な信仰を塞いでしまうのです。
 そんな誘惑と闘いを強いられている信仰者たちをヤコブは励ましました。「身分の低い兄弟は、自分が高められることを誇りとしなさい。富んでいる人は、自分が低くされることを誇りとしなさい(9)」。社会的・経済的な抑圧に苦しんでいる人は、神にあって大切な者、価値ある者として高めてくださる神の恵みを誇りなさい。富んでいる人は、へりくだりのキリストのように低くされることを誇りとしなさい、と命じました。つまり状況に関係なく、神との関係に生かされていることを誇りとするようにと、ヤコブは命じているのです。
 さらに富にしがみつく人生のはかなさについても、ヤコブは語っています。富んでいる人は草の花のように過ぎ去り、美しい姿は失われ、最後には消えて行く、とそのはかなさとむなしさを語るのでした。しかも「旅路の途中で」、人生の目的が果たされないうちに、消えてしまう、と言うのです。この世にしがみついて生きて行くことの、何とむなしいことでしょうか。

【4】 むすび
 私たちは果たして神に、疑わずに信じて求めているでしょうか。求めていないとすれば、それはどうしてでしょうか。自分の力を過信していないでしょうか。神をまだよく理解できていないのではないでしょうか。二心を抱いたまま心が定まっていないのではないでしょうか。そして、この世に対するこだわりを捨てきれないでいるのではないでしょうか。
 もし私たちが主に求めるなら、必ず与えられます。主に求めることのできない自らを悔い改めて、神に祈る者となりましょう。