私を強くしてくださる方         ピリピ人への手紙4章10~14節

2023年7月30日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井千鶴子姉)

 私たちの家族が聖園教会を初めて訪れたのは2015年12月5日でした。当時の私は震災の傷跡が深く、長年介護してきた母を天に送った後で悲しみが癒えておらず、身体も疲れ切っていました。その日も果たして飯能で私たちは暮らしていけるのだろうか、という不安を抱えていたのです。
 しかし礼拝に出席して賛美の歌声が礼拝堂にこだました時、皆さんが大きな喜びをもって感謝の賛美をささげている姿に感動を覚えました。不安は平安に変えられ、主が新しい道をここで開こうとしていることを感じることができたのです。教会が喜んでいる姿は、そこに集う人に大きな励ましを与えるのではないでしょうか。

【1】 ピリピ教会:パウロにとっての喜び
 4章の冒頭でパウロはピリピ教会の信徒たちに「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ」と呼びかけました。パウロがいかにピリピ教会を愛していたのかが伝わってきます。パウロはピリピ教会の信徒たちを愛し慕っており、彼らはパウロにとっての喜びであり、冠でした。冠とは、戦いに勝った勝利者への贈り物です。パウロにとってピリピ教会は、とても誇らしく感じられる存在でした。
 使徒の働き16章に、ピリピ教会誕生の経緯が記されています。それはパウロの伝道によってヨーロッパに最初に誕生した教会でした。紫布商人のリディアとその家族がまず救われてピリピ教会の中心になりました。その後、パウロが投獄されていた牢獄の監守とその家族も救われました。
 この時のパウロは囚人でした。しかし、ピリピ教会の愛と祈りに支えられながら、その中であってもパウロは喜ぶことができました。神を信じる者にとって、教会はどれだけ大きな喜びでしょうか。

【2】 ピリピ教会に必要だった喜び
 ところがそのピリピ教会に向かってパウロは4節で語りました。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」。パウロにとって大きな喜びだったピリピ教会の信徒たちに向かって、パウロは「喜びなさい」と語って励ましています。当時のピリピ教会には、喜びが必要だったことがわかります。
 この中で大事なことは「主にあって」ということばです。「主にあって」の喜びとは、主なるイエス様が私たちとともにいてくださることからくる喜びです。この喜びは私たちの日々変化する状況や環境に依存した喜びではありません。試練の時にも、困難な時にも、また、どんな状況の中にあっても変わらずに与えられる喜びなのです。
 私たちはいつも模範的な信仰者ではなく、むしろみこころにそむく時の方が多く、神様に反抗し不従順になることもありますが、そんな罪深い私たちであっても罪深い私たちのことをご存知で、なお、主の愛は変わることがなく私たちに注がれています。
 時に神様は私たちを危険から守るために、また私たちの成長を願って必要な試練を与えることがあるかもしれません。私たちを愛しているがゆえに、私たちの成長に必要だからこそ、試練を与えて下さることもあるのです。

【3】 どうすれば、主にあって喜ぶことができるのか
 私たちはどうすれば「主にあって」喜ぶことができるのでしょうか。その恵みをどのように体験できるのでしょうか。
 パウロは8節で、すべての真実なこと、尊ぶべきこと、正しいこと、清いこと、愛すべきこと、評判のよいこと、徳とされることや称賛に値することに心を留めなさい、と命じました。まず大事なことは神のご性質を心に留めて、私たちの心を良きものでいっぱいにすることです。次にパウロはパウロが教えた福音を行いなさいと命じました(9)。学んだこと、見たこと、聞いたことを行う必要があります。その時に平和の神がともにいてくださる恵みを体験できることがわかります。
 これはパウロ自身が学んできたことでした。パウロは貧しい時も、富んでいる時も、あらゆる境遇に満足することを学んだ、と告白しています(11)。パウロも学びました。パウロも最初はその恵みを知らなかった、ということです。学ぶ中で、あらゆる境遇に対処する秘訣を彼は心得ていきました。その蓄積の先に「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」という、パウロの大胆な告白が生まれてきたのです。主にあって喜ぶために、私たちには学びが必要であることがわかります。

【4】 むすび
 私たちの喜びは、主から来る喜びです。その喜びを互いに分かち合えるところに教会の素晴らしさがあります。私たちも、あらゆる境遇の中で主を覚えましょう。そしてそこで与えてくださる喜びを互いに分かち合っていきたいと思います。