永久の記念             ヨシュア記4章1~9節

2023年6月18日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 十字架の塔の建設
 聖園教会の歴史の中で新会堂建設に取り組んだ時期は、教会が一番成長した時でした。当初、新会堂を林側に建設する予定でしたが、その道が閉ざされた時、当時の教会はとても悩んだようです。それは譬えて言うならば、イスラエルの民が大河ヨルダン川を前にして立ち止まった時のようでした。
 しかしその時、教会は主がともにおられることを信じ、信仰をもって一歩前に踏み出しました。すると道が開かれ、それまでの旧会堂が建っていた同じ場所に、さらに大きな会堂を建設するビジョンが示されました。それはまさに神がヨルダン川の水をくい止めて、道を用意してくださった時の ような経験だったのです。当時の信徒たちはその道を進み、そして今ある新会堂が完成したのです。
 その恵みを忘れずに覚え続けるために建てられたのが、教会の入り口に立つ十字架の塔です。イスラエルの民がヨルダン川から12の石を集めて記念碑を立てたように、当時の信徒たちは飯能河原から一つずつ石を集めて、十字架の塔を築きました。そのようにして当時の教会は、神に信頼する素晴らしさを体験で教えられたのです。

【2】 子どもたちに恵みを伝えるため
 ヨシュア記4章でイスラエルの民もヨルダン川から12の石を集めて「しるし」としました。それらの石はイスラエルの子らにとって「永久の記念」となりました。その石は、何を永久に記念するものだったのでしょうか。
 第一にそれは、子どもたちに主の恵みを語り継ぐためのものでした。「後になって、あなたがたの子どもたちが『この石はどういうものなのですか』と尋ねたとき、…(6)」。この石のしるしを立てることによって、後の子どもたちが尋ねてくることが想定されていたことがわかります。子どもたちのその質問に応える形で、その時与えられた経験が、子どもたちに伝えられるよう意図されていました。「ヨルダン川の水が主の契約の箱の前でせきとめられたのだ。(7)」。この石のしるしは、次世代の子どもたちに、神の救いのみわざを語り伝えるための「永久の記念」だったのです。
 教会の前に立つ十字架の塔を見て「この塔はなぜ立っているの?」と問いかけてくる子どもは、あまりいないかもしれません。しかし大事なことは、子どもたちが尋ねて来た時に、答えられる準備をしておくことです。主が与えてくださった救いのみわざについて、自分のことばで語れるようにしておくことです。

【3】 地のすべての民が、主を知るため
 その石のしるしは二番目に、あらゆる民が神の偉大さを知るためでした(24)。実はこの時、カナンの地の住民たちは迫りつつあるイスラエルの民を恐れていました。神がイスラエルの民とともにおられることが証しされていたからです。
 ヨシュア記2章を読むと、イスラエルの民がまだヨルダン川を渡り終える前の時点だったのに、エリコの住民たちはすでにイスラエルに対する恐怖に襲われ、震えおののき、心が萎えて、だれもが気力を失っている状態だったことがわかります。その町の中からラハブという主を恐れる信仰者が与えられるほどでした。
 そのイスラエルが何とヨルダン川を渡ってしまったのですから、カナンの地の住民たちはさらに大きな恐怖にとらわれてしまったことでしょう。ヨシュアたちが立てた石のしるしは、神の御手がいかに強いかを地のあらゆる民に示すための永久の記念だったのです。
 聖園教会は新会堂建設の時に十字架の塔を立てて、この世に向かって十字架をはっきりと示しました。十字架は私たちに対する神の愛がいかに大きいか、私たちを救い出す神の御手がいかに強いかを世界中の人々に示す永久の記念です。

【4】 私たちが主を恐れるため
 その石のしるしは三番目に、イスラエルの民が自分たちの神を恐れるためでした(24)。春先で大量の水が流れていたヨルダン川は契約の箱を担ぐ祭司の足が川に浸った瞬間にくい止められ、祭司の足が水から上がった瞬間に元に戻りました。以前のように、川岸いっぱいに満ちて流れるヨルダン川を見て、イスラエルは神を恐れたに違いありません。もし主がそこで守ってくださらなければ、彼らは皆、川の水に呑み込まれて死んでいたからです。
 もしイエス・キリストが私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んでくださらなかったならば、私たちも神の怒りを受けて滅ぼされるだけの存在でした。そうならなかったのは、ただ十字架のみわざのゆえです。十字架は私たちが神を恐れ続けるための永久の記念なのです。

【5】 むすび
 教会にとって一番大事なつとめは十字架をしっかり掲げることです。それは子どもたちが信仰を継承するために必要です。世界中の人々が神の愛を知るために必要です。そして私たちが主を恐れ続けるために必要です。
 「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです(使徒の働き4章12節)。」 イエス・キリストの十字架の他に、救いの道はありません。この「永久の記念」である十字架を、私たちはしっかりと掲げていきましょう。