あなたがたは向きを変えて出発せよ       申命記1章6~8節

2023年6月11日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 新会堂建設期のみことば
 「あなたがたは向きを変えて出発せよ」。この申命記1章7節のみことばは、聖園教会の新会堂建設期に、くり返し語られたみことばでした。それまであった「ひかり幼児教室」を止めて新会堂建設に取り組む決断をした時も、新会堂建設の当初の計画が頓挫してさらに大きな会堂を建てるように求められた時も、そして、献堂式に「ハレルヤ・コーラス」を賛美することが決まった時も、教会は繰り返し、向きを変えて出発することが求められました。
 そのみことばは今日の私たちに、何を語りかけているでしょうか。

【2】 みこころの確認
 イスラエルの民はこの時、とても大事な時を過ごしていました。荒野の40年の旅路を終えて、ヨルダン川の東側に到着しました。ヨルダン川の対岸にもう「約束の地」は見えています。そしてこれから彼らは、その「約束の地」に向かって、新しい一歩を踏み出そうとしています。そのような大切な節目の時に、モーセは何をしたでしょうか。何をするように導かれたでしょうか。
 モーセは「みおしえの確認」を行うことにしました(5)。この40年間、神はどのようなみことばをもって彼らを導いて下さったのか、その神が、これから新しい歩みを始めようとしているイスラエルに何を語ってくださるのか、立ち止まって、「みおしえの確認」を行うことにしたのです。
 私たちが未来に向かっての新しい歩みを始める際に、大切なことは何でしょうか。立ち止まって、みおしえの確認を行うことです。私たちは今まで、どのようなみことばが与えられ、どのように導かれてきたでしょうか。そして主は今、私たちに何を語っておられるでしょうか。御声に耳を傾け、みこころをしっかりと悟ることが大事なのです。

【3】 向きを変えての出発
 さて、それではモーセによって最初に確認がなされたみことばは何だったでしょうか。それが「あなたがたは向きを変えて出発せよ」だったのです。
 これは、主なる神がホレブでイスラエルの民に告げたことばでした(6)。ホレブとはシナイ山のこと。エジプトから救い出されたイスラエルの民は、モーセに導かれてシナイ山までやって来ました。そこで彼らはしばらくの間、滞在することになります。
 6節で「あなたがたはこの山に十分長くとどまった」と語られていますが、彼らはそこに、約一年間滞在し続けました。その間に神はイスラエルの民に十戒を与え、契約を結び、そして幕屋建設を指示しました。民は神に示された通りに、幕屋の建設に励んだのです。その幕屋が完成するまでに約一年かかりました。
 その上で彼らは「あなたがたは向きを変えて出発せよ」との、このみことばが与えられて、出発をすることになりました。ただ出発するだけでなく、その先に目指すべき目的地も具体的に示されました(7)。それは「約束の地・カナン」です。そのような目標が示された上で、出発を果すよう導かれたのです。
 ただし、彼らはその前に「向きを変える」ことが求められました。「向きを変える」ということばから私たちが思い起こすことは、「悔い改め」ではないかと思います。「悔い改め」とは、自分から神の方向へと、向きを180度変えることであると、よく説明されます。イスラエルの民は何か、神に悔い改めるべき罪を犯したのでしょうか。ホレブに長く滞在したということ自体は、罪ではありません。しかし、それでも彼らには目的地が示され、みこころの方向へと彼らの目を定め、しっかりと向きを変えてから出発することが求められたのです。
 私たち信仰者も知らず知らずのうちに、進むべき方向を見失うことがあります。何のための信仰なのか、何のための人生なのか、何のための教会奉仕なのか、見失ってしまう時があります。よって私たちも繰り返し、進むべき方向が示されなければなりません。私たちの目をみこころの方向にしっかりと定めて、その上で出発していくことが求められているのです。

【4】 これからの教会に求められていること
 最近はSDGsということばをよく聞くようになりました。「持続可能な開発」とか「持続可能な社会」ということばが今、さかんに語られています。そして最近は教会でも「持続可能な教会」ということばが語られるようになりました。
 教会の高齢化が進み、このままではやがて教会は存続できなくなるのではないかと、多くの人々が心配しているようです。教会を存続させるためには何が必要かと真剣な議論があちこちで始まっています 。
 しかし若い方々が教会に集まらないことが一番の危機なのではありません。教会が存続の目的を見失っていること、教会の目指すべき方向が教会の中できちんと確認されていないこと、そちらがもっと大きな危機です。教会は何のために存在しているのでしょうか。何をするように私たちは主に召されたのでしょうか。教会が存在の目的を見失ったらもはや教会ではないことを、私たちは自覚するべきです。
 私たちは一体何のために信仰者とされ、何のために生かされているのでしょうか。すべて主の栄光のためです。私たちもしっかりと向きを変えて出発する者となりましょう。