わたしが望むようにではなく       マタイの福音書28章36~46節

2023年5月28日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 「飯能キリスト聖園教会」の誕生
 私たちの教会は当初「名栗川クリスチャンキャンプ伝道所」や「飯能福音教会」という名前で活動を行っていました。「飯能キリスト聖園教会」として名づけられたのは、1976年に宗教法人格を取得した時です。
 小林鏡子先生と軍地光子先生は、福島県須賀川市にかつてあった中央日本聖書学塾という神学校で学ばれました。「聖園」という名前はその神学校の敷地内にあった礼拝堂から取られたと言われています。また、当時神学生たちは須賀川の町での開拓伝道に取り組み、それがきっかけとなって一つの教会が誕生しました。現在の須賀川めぐみキリスト教会ですが、当時は「須賀川聖園教会」と呼ばれていました。しかも「聖園」という字に「ゲッセマネ」というルビをふって「須賀川ゲッセマネ教会」と呼ばれていたそうです。つまり「聖園」とはゲッセマネの園を表しています。
 エルサレムの東にあるオリーブ山の麓に、「ゲッセマネの園」と呼ばれる庭園がありました。エルサレムから遠くなく、しかも町の喧騒を避けることのできるこの場所は、イエス様にとって格好の祈りの場だったのです。小林鏡子先生と軍地光子先生はこの場所をゲッセマネの園であると意識しながら教会開拓に励みました。そして自分たちでもよく祈られ、ここに祈りの教会を築き上げたのです。私たちはこれからも、この場所をゲッセマネの園として覚えながら、祈りに励んでいきたいと思います。

【2】 悲しみの中での祈り
 イエス様は十字架にかけられる日の直前に、このゲッセマネの園で祈られました。それはどのような祈りだったでしょうか。それは悲しみの中での祈りでした。イエス様はその場所に到着されると「悲しみもだえ始められ」ました(37)。そして弟子たちに向かって、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と語られました(38)。イエス様の生涯にはいつも悲しみがありましたが、これ程の大きな悲しいを体験されることはありませんでした。その思いを弟子たちに吐露するほどだったからです。
 イエス様はこれから捕らえられて、十字架につけられることになります。激しい痛みと苦しみが待っています。そしてそこで死ななければなりませんでした。その事実を前に悲しくなるのは当然です。イエス様は私たちと同じ人間でした。そのような大きな悲しみの中でひざまずき、神に向かって心を注ぎ出して祈ったのです。
 イエス様は「わが父よ」と語りかけました。大きな悲しみの中、父なる神に向かって正直に語りかけました。「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」。大きな悲しみの中にあっても、イエス様の父なる神に向かう扉は開かれていたことがわかります。そして父なる神との親しい交わりの中に招かれていきました。
 私たちの悲しみの時にも、父なる神は私たちのそばにおられます。悲しみの中で私たちの心が、その悲しみによってふさがれてしまうことがありませんように。どんな悲しみの中にも、主はおられること。私たちが呼べはすぐ近くにおられる方であることを忘れないようにしましょう。

【3】 みこころがなりますように
 私たちも多くの悲しみを経験しますが、イエス様の体験された悲しみはそれとは全く比較もできません。なぜならイエス様はこれから、最も信頼していた父なる神に見捨てられるという経験をされるからです。
 イエス様に罪は一つもなかったのに、私たちのすべての罪を背負って、身代わりの死を遂げられました。神のさばきを受け、結果的に神に見捨てられることになったのです。それがどれだけ恐ろしい経験なのか、私たちには想像もできません。
 イエス様も最初は「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られました。「この杯」とは、十字架上の苦しみと死を表しています。その苦しみから逃れたい。これがイエス様の本音だったのです。しかし祈りの中でイエス様は「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」との告白に導かれました。正直に祈りつつ、最終的には神のみこころを優先するように導かれたのです。
 祈りにおいて神と相撲を取って屈服した、ということではありません。祈りの中で自分の強い思いから解放されて自由にされていったのです。よって最後には平安がありました。迷いや恐れを取り除かれて平安が与えられ、みこころの道を踏み出していったのです。

【4】 むすび
 自分ではどうすることもできない重い状況の中で、大きな悲しみの中で、私たちの慰めは、そこに主がおられるということです。この方との出会いと深い交わりを通して、私たちはあらゆる思い煩いから解放されて平安を与えられます。それはこの世では決して得ることのできない天の平安です。そのような恵みを受けて私たちは自分の願いの実現ではなく、「みこころがなりますように」との祈りに導かれていくのです。