喜びをもって主に仕えよ          詩篇100章1~5節

2023年5月21日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 「飯能福音教会報・第1号」
 飯能キリスト聖園教会の週報の第一号は1965年8月22日に発行されました。見出しには「名栗川クリスチャンキャンプ伝道所 飯能福音教会報・第1号」と記されてあります。当時の教会は自らを「飯能福音教会」と名乗っていたことがわかります。
 この週報を読んでいると当時の礼拝のプログラムだけでなく、教会の様子、祈りの課題、さらに教会の会計状況までわかります。当時の教会員は三名で、それは横田行弘兄、若生富子姉、早川節子姉でした。小林・軍地両牧師を中心に当時の礼拝の参加者は10名以下だったと思われます。
 この記念すべき週報第一号に掲げられたみことばが詩篇100篇2~3節のことばでした。「喜びをもって主に仕えよ。歌いつつそのみ前に来れ。主こそ神であると知れ」。この詩篇を特徴づけていることばは「喜び」であることがわかります。
 当時の教会では大きな喜びが分かち合われていました。この週報を記した軍地光子先生はこのように書き留めています。「飯能市に伝道を開始し、二名の受洗者と一名の信徒が与えられ、正式に飯能福音教会が出来、三名の正会員を中心にここまで御業がなされて参りましたことは、本当に感謝なことであります。現在、三~四名の兄姉が加えられてますます神様の祝福を受け感謝にたえません。」
 当時の教会にとって一人の信者、一人の求道者の存在が大きな喜びであり感謝でした。この喜びと感謝を私たちは、いつまでも忘れるべきではありません。

【2】 喜びをもって
 詩篇100篇は「全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ」との全地に向かっての呼びかけから始まっています。さらに「御前に来れ」「主の門に…その大庭に入れ」ということばが続き、この詩篇が礼拝への招きの詩篇であることがわかります。
 この詩篇を一読してすぐに気づかされることは、この詩篇の著者が喜びでいっぱいになっていることです。「全地よ、主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来れ…。「喜び」ということばが何度も繰り返されます。彼は喜びをもって礼拝に駆け付けることができました。喜び歌いつつ御前に集まることができました。それゆえに「喜びの声をあげよ」と全地に呼びかけることができたのです。
 どうして彼はこんなにも喜んでいるのでしょうか。それは礼拝には主なる神がおられ、この神とお会いできるからです。神の素晴らしさをそこで味わい、その素晴らしさを兄弟姉妹とともに分かち合うことができるからです。礼拝を通して喜びを互いに共有し、賛美を通してその喜びで互いに響き合うことができるからです。
 その喜びは、この世では決して味わうことのできない天上の喜びでした。御国の喜びをこの地上で味わうことのできる時、それが礼拝だったのです。

【3】 神の素晴らしさ
 神とお会いできることがどうして、そんなに大きな喜びなのでしょうか。それは主が彼らの造り主であり、彼らは主のもの、主の民、その牧場の羊だからです(3)。主は、彼らを造られたからこそ彼らのすべてを知っておられ、彼らを責任をもって守り支え、日々の必要を満たし、とこしえに導いてくださるからです。
 さらに、この主との生きた交わりは私たちの罪深さや不信仰によって損なわれたり、失われたりすることがありません。主がいつくしみ深く、その恵みはとこしえまであり、その真実は代々に至るからです(5)。救われた私たちは永遠に主のもの、主の民、その牧場の羊であり続けるのです。
 小林鏡子先生と軍地光子先生は、この「喜び」をいつも大切にされながら教会形成に励んでこられたのではなかったでしょうか。聖園教会が60年を経た後も大切にしていかなければならないことは、これです。教会の中にこの「喜び」がいつも生きていることです。

【4】 知れ。主こそ神
 昔も今も変わらずに教会に与えられているつとめとは何でしょうか。それはこの神を人々に宣べ伝えることです。詩篇の著者は言いました。「知れ。主こそ神(3)」。全地に向かって、この主こそは神であることを知りなさい、と命令しました。大きな声で宣言しました。
 そう宣言する力は、どこから生まれてきたのでしょうか。「喜び」から生まれてきました。主こそ神であることを知っていることの喜び、その方を愛し、この方に愛されていることの喜び、この方が変わらずに私たちの主であることの喜び、この喜びから感謝が生まれ、宣教の力が生まれてきたのです。
 飯能キリスト聖園教会は過去60年、そのようにしてこの地から呼びかけてきました。全地に向かって「知れ。主こそ神」と呼びかけ続けてきました。このつとめをこの先も私たちもしっかりと引き継いでいきたいと思います。全地に向かって「知れ」と呼びかけていこうではありませんか。