十字架につけられたキリスト        ペテロの手紙第一2章21~25節

2023年4月2日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【序】
 本日より受難週がはじまります。与えられているみことばより、十字架につけられたキリストの姿に私たちは注目したいと思います。イエス・キリストの十字架は何のためだったでしょうか。

【1】 苦しみの中で忍耐するため
 第一に、私たちが苦しみの中で忍耐するためです。ペテロの手紙の読者は苦しんでいた人々です。その読者の多くは奴隷だったと言われています。彼らの中には「意地悪な主人(18)」に仕える者、「不当な苦しみ(19)」を受ける者もいたのです。
 そんな彼らに対してペテロは語りました。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された(21)。」キリストの受けた苦しみは私たちのためであり、自ら苦しむ姿を通して私たちに模範を示してくださったことがわかります。つまり苦しみの時に私たちに必要なこと、それはイエス・キリストの十字架を仰ぐことです。
 キリストはの罪を犯したことがないのに、のしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをしませんでした(23)。その代わりに正しくさばかれる方にお任せになりました。神が共におられるからこそ、イエス様は忍耐することができました。苦しみの中にあっても、イエス様は正しいさばきをなされる神にお委ねできたのです。
 神が共におられるからこそ、私たちも苦しみの中で忍耐することができます。神が私たちの主であるからこそ、私たちはこの方にすべてをお委ねできるのです。

【2】 罪を離れ、義のために生きるため
 イエス・キリストの十字架は第二に、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです(24)。イエス様は私たちの罪をその身に負われ、私たちの身代わりとなって神のさばきを受けてくださいました。それは私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。私たちはイエス様を救い主として信じ受け入れた時、罪と死に支配される古い自分に死に、キリストのために生きる者とされました。
 今の私たちは本当に罪を離れ、義のために生きているでしょうか。イエス様が私たちのために死んでくださったと言うのに、相変わらず罪の中に留まり続け、自分のために生きている、ということになっていないでしょうか。私たちを愛してくださった方 のために生きる者となりたいと思います。

【3】 癒されるため
 イエス・キリストの十字架は第三に、私たちが癒されるためです。「その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒された(24)。」イエス・キリストの身体に刻まれた打ち傷は、イエス様が私たちのために苦しまれたことのしるしです。その打ち傷に癒しの力があることがわかります。
 私たちの目は人の悪には敏感なのに、自分の悪には鈍感です。私たちの耳は自分にとって都合のよいことばかりを聞きたがります。私たちはすぐに悪いことばを口走ってしまいます。そして私たちは自らの手で罪を犯します。私たちの目も耳も口も手も病んでいるのです。そして私たちの心が傷ついているために、私たちは人に安心して心を開くことができず不安定です。
 それらの病の原因は、私たちの心の中にある罪です。その病巣をイエス様の十字架は取り除き、私たちを内側から癒してくださいます。私たちは赦されたことに感謝しながらも、癒されることを拒んでしまっていることが多いのではないでしょうか。イエス様の打ち傷によって、しっかりと癒してもらいましょう。
 
【4】 牧者であり監督者である方のもとに帰るため
 イエス様の十字架は第四に、私たちが私たちのたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰るためです(25)。主は私たちの良い羊飼いです。私たちを養い、導き、危険から守り、満たして下さいます。迷子になった時も探し出して見つけ出してくださいます。
 さらに主は監督者です。私たちが再び過ちに陥ることがないように、私たちが再び堕落してさまようことがないように、いつも見守ってくださっているのです。十字架にかけられたイエス様を通して、私たちはこの主のもとに帰ることができます。私たちはいつも、この方の下に帰って安らいでいるでしょうか。

【5】 むすび
 イエス様の十字架は私たちの救いのためでした。同時に救われた私たちも、続けて十字架を仰ぎ続ける必要があります。なぜならば十字架を仰ぐことによって私たちは苦しみの中で忍耐を学び、自らの罪を離れて義のために生きることができるからです。また十字架を仰ぐことによって私たちの病や傷が癒され、牧者であり監督者である方の下にいつでも帰ることができるからです。
 この十字架につけられたキリストから私たちの目を離すことがありませんように。これからもずっと十字架を仰ぎつつ、歩んでいきましょう。