神の右に座しておられるキリスト       ローマ人への手紙8章31~34節

2023年4月23日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 前回はキリストが天に昇られ、そこから私たちに聖霊を遣わしてくださった恵みを覚え合いました。キリストの十字架、復活、昇天と続き、キリストは今天で何をしておられるのでしょうか。キリストは、神の右に座しておられます。それでは、神の右の座でキリストは一体何をしておられるのでしょうか。

【1】 神の右の座
 そのことを考える前に、神の右の座とはどんな場所なのかを覚え合いたいと思います。
 神の右の座とは、栄光の座、権威と統治の座、全能の神とともに権力を行使する場です。イスラエル王国が一番繁栄した時の王だったソロモンは、自らの王座を造りました。それは象牙でできており、純金で全体をかぶせ、六つの段があり、座席の両側には肘掛けがあり、その肘掛けのわきには二頭の雄獅子が立っていました。さらに六つの段の両側には12頭の雄獅子が立っていたそうです(第一列王記10の18~20)。それは王の圧倒的権威を表す座だったのです。そこから王は会見を許し、審判を下し、忠誠を受け、法令を宣言しました。
 そのようにキリストは神の右の座に着座し、この世界を統べ治めておられます。その御座に着くキリストを、やがて全世界の民が賛美することになるのです。
 なぜキリストはこの神の右の座に着いておられるのでしょうか。それは、キリストが人となって私たちに仕えてくださったからです。キリストは人となられて自らを低くして、ひたすら私たちに仕えてくださいました。そして死にまで、実に十字架の死にまで従われました。
 それゆえに神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白し、父なる神に栄光を帰するためです(ピリピ2の6~11)。そのようにしてキリストはいかに生きるべきかの模範を、私たちに示してくださいました。
 「誰が一番偉いか」と議論していた弟子たちに向かってイエス様は、「一番偉い人は、一番若い者のようになりなさい。上に立つ人は、給仕する者のようになりなさい(ルカ22の26)」と教えられました。そしてそのような者たちにイエス様は、「王権を委ねる」「わたしの王座に着いて、イスラエル12部族を治める」と約束してくださいました。イエス・キリストに従い、仕える者を神は引き寄せ、高く引き上げてくださるのです。

【2】 私たちのとりなしのため
 それでは神の右の座におられるキリストは、そこで何をしておられるのでしょうか。私たちのために、とりなしていてくださいます(ローマ8の34)。とりなすとは神のすぐそばで私たちのために祈ってくださっている、ということです。
 イエス・キリストの日々の歩みの中にはいつも祈りがありましたが、イエス様はいつも弟子たちのために祈っておられました。ある時イエス様はペテロに向かって言われました。「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました(ルカ22の32)。」 イエス様はペテロがその後、イエス様を三度知らないと言ってしまうことをご存知でした。それがペテロにとって、信仰を失いかけてしまう程の大きな経験であることもわかっておられました。
 しかし、イエス様はその後の彼が立ち直ることも承知の上で、そこで立ち直った時には、同じように落ち込んでしまっている兄弟たちを力づけるようにと指示されたのです。ペテロが大きな挫折を味わいながらも立ち直り、その後、力強いわざを行うことができたのはどうしてだったでしょうか。キリストのとりなしがあったからです。主は私たちのためにも今、とりなしておられることを覚えたいと思います。
 ローマ8章でパウロは「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょうか」と問いかけました(31)。その答えは、どんなものも「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」です(39)。この神の守りの背後には、実はキリストのとりなしがありました。キリストが私たちのためにとりなしてくださっているからこそ、私たちの信仰は守られているのです。
                                                                                   
【3】 むすび
 キリストが過去にしてくださったことについて、私たちはよく知っていると思います。しかし今、キリストがして下さっていることにも私たちは自らの思いを向けていきたいと思います。
 今、キリストは私たちのためにとりなしをしてくださっています。私たちの信仰がなくならないように、失敗しても挫折を経験しても立ち直ることができるように、そして立ち直ったら兄弟たちを力づけ、主の働きをなすことができるように、キリストは今祈っておられるのです。もし私たちが信仰を全うすることができるとするならば、それはこのキリストのとりなしがあるゆえなのです。
 神の右の座についておられるキリストに栄光がありますように。この方の愛に応えて、私たちはこの方に心から仕えて行く者でありたいと思います。