御国の弟子となった学者         マタイの福音書13章51~52節

2023年3月12日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 「これらのことがみなわかりましたか」
 イエス様は御国に関する7つのたとえを教えられた後、今日の箇所で弟子たちに問いかけられました。「あなたがたは、これらのことがみな分かりましたか。」 「これらのこと」とは、イエス様が今まで話してこられた7つのたとえを表しています。これらのたとえを聞いた上で、その内容を理解したのか、とイエス様は弟子たちに問いかけたのでした。
 「分かる」と訳されていることばは、他の箇所では「悟る」と訳されています。そして、この「分かる」「悟る」ということが実は、マタイ13章でとても大事なテーマでした。イエス様は「彼らは…悟ることもしない」と語り、群衆たちの不信仰を嘆かれました(13)。それは「あなたがたは…決して悟ことはない」と語った預言者イザヤの預言の実現であると語られました(14)。さらに四つの種のたとえを通して「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです」と教えられました(23)。イエス様は明らかに人々が聞いて終わりにするのではなく、聞いて悟ることを願っておられたのです。
 そのイエス様は最後に弟子たちにも問いかけました。「あなたがたは、これらのことがみな分かりましたか。」 イエス様は私たちにも「わかりましたか」「悟りましたか」と問いかけています。みことばを聞いて終わりにしないで、しっかりと悟る者となりたいと思います。

【2】 「はい」
 そのようなイエス様の問いかけに、弟子たちはどのように答えたのでしょうか。彼らは一言「はい」と答えました。素晴らしい応答です。彼らはイエス様によって教えられた御国のたとえをすべて分かった、と告白したからです。
 でも彼らは本当にわかったのでしょうか。わかったつもりになっていただけではないでしょうか。この後イエス様から「あなたがたも、まだ分からないのですか」と叱られているからです(15の16)。おそらく彼らの理解は充分ではなかったことでしょう。しかし、それでも彼らはイエス様の教えを自分のこととして受け止めました。喜びをもって悟ることができたのです。
 大事なのはなぜ弟子たちがそのように応答できたか、です。13章で明らかにされている一つの事実、それは弟子たちがイエス様に問いかけたことです。彼らはイエス様の語られたたとえの意味がわからずに、イエス様にたとえの説明を求めました(36)。その問いかけに答えて、イエス様はたとえの意味を弟子たちにわかるように説き明かしてくださいました。つまり彼らはイエス様から教えられて、わかったのです。自分で理解を得たわけではありません。
 私たちがみことばを聞いて心から、しかも喜びをもって「わかった」と言えるとするならば、それは主が私たちに教えてくださったからです。イエス様は「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます(ヨハネ14の26)」と語られました。私たちに福音の真理を教えてくださるのも、教えられたことを思い起こさせてくださるのも、聖霊であることがわかります。
 私たちはぜひ教えられやすい者となりましょう。私たちに真理を教えてくださる聖霊の導きに期待しつつ、祈りながらみことばに耳を傾けていきましょう。

【3】 御国の弟子となった学者
 弟子たちの答えを受けてイエス様は「こういうわけで、天の御国の弟子となった学者はみな、自分の倉から新しい物と古い物を取り出す、一家の主人のようです」とお語りになりました。
 「こういうわけで」とは、どういうわけでしょうか。イエス様が弟子たちの応答をしっかりと受け止めてくださったことがわかります。その上で弟子たちのことを「御国の弟子となった学者」と言い表しました。当時「学者」とは、モーセの律法の専門家のことを表していました。弟子たちの中に学問を収めた者はいなかっただろうと思います。「律法の専門家」などと呼べる人物は一人もいませんでした。
 イエス様は弟子たちのことを、ほめ過ぎているのではないでしょうか。イエス様は弟子たちを励ましながらも、弟子たちに期待しているのです。この話しの中で「新しい物」「古い物」とは、それぞれ「イエス様によってもたらされた新しい教え」「旧約聖書の教え」を表しています。自分の倉からその両方を取り出す一家の主人のように、弟子たちが新約聖書からも、旧約聖書からも自由に取り出して、みことばを土台としてこの世を歩んでいくことをイエス様は弟子たちに求めておられたのです。

【4】 むすび
 変わりやすく、不確かで、複雑で、曖昧な今の世の中にあって、みことばを土台として生きる御国の学者たちが、どんなに必要とされていることでしょうか。みことばから学ぶのではなく、みことばそのものを学び、神のみこころをしっかりと受け止めていく学者たちが必要なのです。
 私たちは「学者」としてのつとめをよく果たし、聖書からよく教えられる者となりましょう。その時主は、みことばをもってこの世で平安に歩んでいけるように、私たちを導いてくださるのです。