御国の姿:魚を集める網        マタイの福音書13章47~50節

2023年2月26日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 イエス様はここに至るまで、御国の素晴らしさについて、そのいのちについて、その価値について、たとえを通して教えてこられました。その上でイエス様が最後に伝えたかったことは何だったでしょうか。それは御国が本当に自分のものとされたのか、本当に御国の民となったのか、その吟味をすることだったのです。

【1】 魚を集める網
 イエス様は御国のたとえの最後として「魚を集める網」のたとえを語られました。ガリラヤ湖の漁師たちは網を用いて漁をしました。しかもそれは地引き網のような大きな網です。二隻の舟が大きな網の両側をそれぞれつかんで、間に距離をとって網を大きく開いて舟を漕いでいくと、たくさんの魚が網にかかりました。そのような漁をする時の様子がここで想定されていると考えられます。そこには「あらゆる種類の魚」が集められました。
 網がいっぱいになると、漁師たちはそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れて、悪いものは外に投げ捨てます。たくさんの魚たちを分別するのですから、これは立ってできる作業ではありません。座って魚一匹一匹をよく見つめ、売物になる魚とそうでない魚とを見分けなければなりません。そのようにして良い魚たちと悪い魚たちとを分別する作業がしっかりなされている様子が描かれています。
 これはガリラヤ湖畔でよく見られる光景だったと考えられます。とりわけ元漁師だったペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネにとってはかつての自分たちの姿でした。よって彼らにはイエス様のこのたとえ話がよく理解できたはずです。
 教会の働きを例えるなら、それは漁のような働きです。もちろん種蒔きや農作業にも例えられますが、漁にも例えられます。イエス様はペテロたちを召し出す時に言われました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。(4の19)」 それまで魚を集める漁師だった弟子たちは、イエス様と出会った後、人を集める漁師に変えられました。集める対象は変わりましたが、彼らは変わらずに「漁師」だったことがわかります。
 私たちも漁師であり、教会も日々漁を行っています。しかもそれは一本釣りではなく地引き網による協力作業です。そこにはいつもチームワークがあります。私たちは失われた魂の獲得のために、互いに祈り合い協力し合いながら、これからもたましいをすなどる漁に励んでいきたいと思います。
 
【2】 この世の終わりに
 このたとえは何を表していたのでしょうか。イエス様は言われました。「この世の終わりにもそのようになります。」 このたとえが「この世の終わり」についてのたとえであることがわかります。この世の終わりに、何が起こるのでしょうか。イエス様は語られました。
 「御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者どもをより分け、火の燃える炉に投げ込みます。」
 漁師たちが良い魚の中から悪い魚をより分けるように、終わりの時に御使いたちが来て、正しい者たちの中から悪い者たちをよりわけます。そして、よりわけられた悪い者たちは火の燃える炉に投げ込まれます。そしてそこで彼らは「泣いて、歯ぎしりする」ことになります。
 この50節の結論のことばは42節と同じことばであることがわかります。つまり、イエス様が二番目に語られた「麦と毒麦のたとえ」と、この網のたとえは同じことを伝えていることがわかります。それは終わりの日に定められているさばきについてです。
 ただしこの二つのたとえには違う点があります。それは「麦と毒麦のたとえ」で言い表されていたのがこの世界の状況であったのに対して、「網のたとえ」にて表されていたのは網によって集められた者たちの状態である、という点です。つまりイエス様がここでおっしゃっておられるのは、御国の中に加えられているという事実が、そのまま救いの保証ではない、ということです。

【3】 むすび
 当時の人々がもっていた常識とは、選民であったユダヤ人たちは救われているのに、異邦人たちは救いから除外されている、というものでした。しかしそんなユダヤの民に対してイエス様は語りかけたのです。ユダヤ人であるということが御国の民の保証ではない、ということを。
 教会に来ているということ、いつも礼拝に参加しているということが、救われていることの保証ではありません。洗礼を受けているという事実でさえ、御国の民であることの保証にはならないのです。
 大事なことは私たちが本当にイエス・キリストを信じているかどうか、本当に信仰によって救われて神に義と認められているのか、ということです。その事実は実は終わりの日に明らかになります。神の前で本当の御国の民と、そうでない者たちとの選別がなされてしまうのです。
 私たちは本当に救われているでしょうか。御国の民でしょうか。御国を確かに私たちのものとして得たでしょうか。その吟味を怠ることがないように注意しようではありませんか。