あなたのおことばどおりに        ルカの福音書1章26~38節

2023年12月3日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 神の救いのみわざがなされる時には、必ずその前に準備の時があります。イエス様の誕生の時もそうでした。救い主の誕生という偉大な歴史的な出来事も、ナザレの町の一人の処女マリアの信仰がなければ実現しませんでした。

【1】 マリアのとまどい
 マリアの親戚であるエリサベツに赤ちゃんが与えられてから六か月目に、御使いガブリエルが、ガリラヤのナザレに住む一人の処女マリアの前に現れました。そして言ったのです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」この御使いのことばにマリアはひどくとまどってしまいました。
 とまどって当然だったと思います。御使いが突然彼女の前に現れたからです。しかも「おめでとう」などといきなり言われても、一体何のことかもわかりません。マリアだけでなく、誰だって必ずとまどうに違いありません。
 しかし、その前に記されるザカリヤの反応とは少し内容が違っていたようにも感じます。御使いガブリエルは、神殿の奉仕のために来ていた祭司ザカリヤの前にも現れました。その時彼は御使いを見て「取り乱し、恐怖に襲われた」と記されています(12)。おそらくあまりの恐ろしさのために、ザカリヤは思考停止状態になってしまったのではないかと想像されます。
 ところがマリアはとまどいつつも、「これはいったい何のあいさつかと考え込んだ」と記されてあります。御使いの姿を見て取り乱したザカリヤとは対照的に、マリアは御使いの語ることばについて考え込みました。みことばに反応している姿に、私たちはマリアの信仰を感じさせられます。

【2】 神の励まし
 すると、そのように考え込んでいるマリアに向かって御使いガブリエルはさらに語りました。「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。」 このようなことばによってマリアの中にあった恐れを取り除き、さらに期待をもってみことばに耳を傾けることができるように、御使いが励ましていることに私たちは気づかされます。
 そしてその次に語ったこと、それはマリアが身ごもって男の子を産むこと、その名をイエスとつけるべきこと、さらにその子はイスラエルの民が待ち望んできたメシアであり、そのメシアの支配は永遠に続くことをマリアに告げたのでした。
 マリアは「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに」と反応しました。マリアの心の中にさらなるとまどいが生じたことが感じられます。当然です。未婚の娘が妊娠するとは、どういうことを意味しているのでしょうか。それはマリアが不貞の罪を犯したことの証明です。マリアは間違いなく世間から軽蔑され、姦淫の女として処罰されなければならないでしょう。御使いが知らせた知らせは、マリアにとって喜びよりも恐怖を与える知らせだったのです。
 マリアのこの告白のことばは、ザカリヤの告白のことばとよく似ています。ザカリヤは自分の年老いた妻エリサベツに赤ちゃんが与えられるとの知らせを聞いた時、「私はそのようなことを、何によって知ることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻ももう年をとっています」と答えました(18)。このザカリヤのことばは、彼の不信仰から生まれてきたことばでした。年老いた私たちに子どもが与えられるなど絶対に無理である、とザカリヤはあきらめていたからです。それゆえに彼は口がきけなくなってしまいました。
 マリアも御使いに「どうして」と問いかけましたが、彼女は、一体どのような方法で神がそのことを可能にしてくださるのかを知りたかったのです。信仰に基づいてマリアは神に問いかけたのです。
 そのマリアの問いかけに御使いは応えてくれました。マリアが聖霊によってみごもること、マリアの親類のエリサベツも男の子を宿していること、そして神にとって不可能なことは何もないことを示されたのです。マリアと御使いとの間に、対話が成立していることがわかります。その結果、マリアは信仰の告白に導かれました。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と告白できたのです。

【3】 選びと信仰
 この箇所には生まれて来る救い主の偉大さと、救い主の母となるために選ばれたマリアの小ささの対照が鮮やかに表されています。一方は、大いなる者、いと高き方の子、ダビデの王位、永遠の支配、聖なる者、神の子…と表される人物です。その一方のマリアは、ガリラヤのナザレの貧しき処女、卑しいはしため…と見なされる名もなき小娘です。全く釣り合わない両者なのです。
 しかし、神はこの小さきマリアを選ばれました。そのマリアの信仰によって救い主は誕生し、神の救いのご計画は成就したのです。
 神はご自分の救いの計画の前進のために、大きな者は選びません。この世の取るに足りない小さな私たちを選びます。私たちに求められるのは信仰です。その信仰すら恵みによって与えられるものであることがわかります。みことばに耳を傾け、心を開き、そして尋ね求めましょう。神は、そのような私たちの口にも「あなたのおことばどおりになりますように」との信仰の告白を与えてくださるのです。