ザカリヤの賛歌 ルカの福音書1章67~80節

2023年12月24日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 ルカの福音書1章の中で、分が悪いのはザカリアです。エリサベツとマリアの信仰が光っているのに、ザカリアだけはみことばを疑い、不信仰になってしまいました。それゆえに彼は口がきけなくなってしまったのです。
 しかしその口が開かれる時が遂にやって来ました。与えられた男の子に「その子の名はヨハネ」と書き板を通して告げた時です(1の63)。御使いが語られたことばに信仰をもって応じた時、彼は神のあわれみを受けて解放されました。その口で神を賛美したのです。

【1】 顧みる
 ザカリアは開口一番「ほむべきかな、イスラエルの神、主」と神を賛美しました。どうして神を賛美したのでしょうか。第一に神が御民  を顧みてくださったからです。「主はその御民を顧みてくださった」とザカリアは語りました(68)。
 「顧みる」とは、どのような意味のことばでしょうか。聖書で「顧みる」と訳されていることばには「心配する」「訪問する」「世話をする」という意味が含まれているようです。心配してくださるだけでなく、私たちに実際に関わって導いてくださる神の思いとわざの両方が含まれています。
 かつて神はアブラハムの妻サラを顧みてくださいました(創世記21の1)。顧みた結果神は何をしてくださったのでしょうか。サラに男の子を与えてくださいました。子どもが与えられない時期が長くて、サラは神の愛を疑ってしまった時もあったようです。しかし、神はサラをいつも見守っていました。そして時かなってサラの願いを聞き遂げてくださったのです。
 同様に神はイスラエルの民のことも顧みてくださいました。顧みた結果、救い主を下さったのです。神は私たちのことをも顧みてくださる方です。何もしておられないように感じる時も、神はいつも私たちを見守ってくださっています。そして時にかなった助けと導きを与えてくださるのです。

【2】 救いの角を立てられる
 ザカリアが神を賛美したもう一つの理由があります。それは「救いの角を私たちのために…立てられた」ことです。聖書にて「角」とは、その人の持つ力や権力を表し、これは神が力強い救い主を与えてくださったことを表しています。
 この救い主がくださる「救い」とは、「私たちの敵」からの救いであることがわかります(71、74)。私たちの敵とは一体誰でしょうか。私たちは何と闘っているのでしょうか。
 76節で「幼子よ」と語られている幼子とはイエス様ではなくて、ザカリヤの息子となったバプテスマのヨハネのことを表しています。このヨハネが、預言者として救い主がやって来る道を備える働きをすることが預言されています。そして彼は「罪の赦しによる救いについて、神の民に、知識を与える」つとめを果すことがわかります(77)。
 このことばから神によって与えられる救いとは、罪の赦しによってもたらされる救いであることがわかります。私たちは自分の中にある罪に苦しみます。罪が私たちを内側から支配するために、私たちは自己中心の性質から離れることができません。同時に、私たちは自分が罪人であることを強調しようとするサタンの攻撃に苦しみます。サタンは私たちの罪を大きく見せて、私たちの自信を失わせ、信仰を破壊しようとするのです。
 さらに私たちは罪の結果である死に苦しみます。人はいずれ死ななければなりません。それは私たちの罪がもたらす報酬です。このように私たちは罪と、罪を責め立てるサタンと、罪の結果である死に苦しみます。この罪との闘いを日々強いられています。この戦いに勝利できたらどんなに幸いでしょうか。この敵の攻撃から解放されたら、それは私たちにとってどれ程嬉しいことでしょうか。
 そのために救い主が来て下さいました。神がひとり子イエス様を私たちに下さり、その十字架による尊い贖いのみわざのゆえに、私たちを救い出してくださったのです。

【3】 神の深いあわれみによる
 その救いのみわざは私たちに対する神の「深いあわれみ」のゆえであることを、ザカリアは語っています(78)。ここで「深いあわれみ」と訳されていることばは「内臓」を表すことばで、神の「はらわたを痛める」時のようなあわれみを表しています。神は罪とサタンと死の現実の中でもがき苦しんでいる私たちを見て、心深くを痛めながら、あわれんでくださったのです。
 神に背き、神に反逆し、罪を犯し続けてきた私たちが聖なる神にさばかれるのは、当然のことです。私たちに弁解の余地はありません。しかし、その私たちのためにひとり子イエス様を下さり、そのイエス様が私たちの身代わりとなって神にさばかれたとしたら、それは信じられないほどの大きな愛です。
 このような大きな愛を受けて、その愛を私たちはどうして拒むことができるでしょうか。このような愛を受けたら誰だって、この愛に応えて生きていきたいと願うのではないでしょうか。それが信仰です。このクリスマスの季節、神の愛の現れであるイエス様を是非救い主として信じ受け入れ、神の愛に応えて行く新しい歩みを始めてまいりましょう。