あなたの信仰はどこにあるのか       ルカの福音書8章22~25節

2023年11月12日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教メッセージ(若井千鶴子姉)

【1】 信仰は賜物
 与えられている記事を通して、「信仰とは何か」ということが教えられています。私たちは信仰について正しく理解していないために、時として思い悩み、生きる喜びを失ってしまうことがあります。
 信仰は神様が御霊によって私たちに与えてくださる賜物です。私たちはついつい自分で信仰を持った、自分で決断した、と思ってしまいがちです。しかし第一コリント12章3節で「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』ということはできません」と教えられています。聖霊が私たちに信じる心を起こしてくださいます。よって信仰とは私たちが自分の力で得たものではありません。神からの賜物です。
 この自覚がないと私たちの信仰生活はいつの間にか、自分中心の生活になってしまいます。感謝と喜びの乏しい信仰生活になってしまうのです。

【2】 不信仰を明らかにする試練
 ある日のこと、イエス様は湖の向こう岸に渡るために、弟子たちと舟に乗り込まれました。その日のイエス様は大変疲れており、舟の中で眠ってしまわれました。嵐が来てもなお眠り続ける程に、お疲れになっていたことがわかります。
 そんな中、弟子たちは突風に吹かれて水をかぶり、嵐を恐れてイエス様に「先生、先生、私たちは死んでしまいます」と訴えました。その後、イエス様は立ち上がり風と波を叱りつけると風は静まり凪になった、と記されています。それを見ていた弟子たちは驚き恐れて、「いったいこの方はどういう方なのだろうか」と互いに言い合いました。弟子たちの中にイエス様に対する恐れが生じたことがわかります。
 イエス様は風と波を叱りつける前に弟子たちに向かって「あなた方の信仰はどこにあるのですか」と問いかけました。そのように弟子たちの不信仰を非難し、神である私がここにいるのになぜ動揺し怯えているのかと、彼らに向かって問いかけたのです。
 弟子たちはそれまで、イエス様と共に暮らし、数々の奇跡を見てきました。イエス様の素晴らしさに常に感動してきました。それにも関わらずこの時は震え怯え、自制心を失ってしまいました。どうしてでしょうか。自分もまもなく溺れて死んでしまうのではないか、といのちの危険を感じたからです。
 私たちも弱さのゆえに狼狽して混乱してしまうことがあります。その背後には神への信頼と確信のなさが隠されているのではないでしょうか。平行箇所のマルコ4章38節を見ると、この時、弟子たちはイエス様に「先生、私たちが溺れて死にそうでも何とも思われないのですか」と強い口調で訴えていることがわかります。神が自分たちを常に見守ってくださると信じる信仰が欠如しているのです。
 私たちが試練の中で自制心を保つことができない一つの理由は、神が私たちに関心を持ち、絶えず見守ってくださっているという理解が欠如している点にあります。私たちの奥深くには、すべての責任は自分にあり自分一人で難関を乗り越えなければならない、という思いが潜んでいます。しかし試練が私たちのそんな独りよがりの姿を示してくれます。
 私たちの信仰はどこにあるのでしょうか。自分の力にすがるのではなく、神がすぐそばにおられ、私たちを見守っておられることを覚えたいと思います。

【3】 試練の中で養われる信仰
 この世で生きていく限り、私たちは試練を避けることができません。神様がいるから大丈夫と思っていた自分が、弟子たちのように、いとも簡単に「神様は本当にいるのだろうか」と考えてしまいます。神に見放されたかのようにすぐに感じてしまいます。何と不安定な私たちではないでしょうか。しかし、試練は神様の許しの中で起こります。試練の中でこそ、私たちの信仰は養われていくことを私たちは覚えたいと思います。
 へブル12章11節で「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます」と教えられています。弟子たちに「あなたがたの信仰はどこにあるのですか」と問いかけた主は、今の私たちに「この場面でなぜ信仰を働かせないのですか」と問いかけておられるのではないでしょうか。
 辛い考えられない状況に直面した時、私たちはまず自分の心を主に向け、それまで語られてきたみことばを思い出し、みことばの真理の上に立ちましょう。そして、神が今まで私たちを決して見放さずに導き続けてくださったこと、私たちのために十字架にかかってくださった方は決して私たちを失望させることはないことを思い出しましょう。
 さらにローマ8章18節では、「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私たちは考えます」と教えられています。たとえ現実が自分の思い描くような状況ではなかったとしても、神の恵みの目的が必ずあることを覚える時、私たちはすべてを主の摂理のうちに委ねることができます。やがて来られる栄光の日々を思い描きながら、すべてを主の計画にゆだね、主を信じて主のために生きる人生を全うしていきましょう。