救いをもたらす神の力          ローマ人への手紙1章16~17節

2023年10月29日 飯能キリスト聖園教会説教要約(若井和生師)

 二日後の10月31日は宗教改革記念日です。教会による免罪符の販売に強い疑問を抱いたマルチン・ルターが、『95ヶ条の提題』を発表したのは1517年10月31日。それをきっかけに宗教改革が始まったと言われています。その時より506年の節目の時を迎えました。今日はルターを回心に導いたとされるローマ人への手紙1章16~17節のみことばをともに味わいましょう。

【1】 福音:救いをもたらす神の力
 パウロは16節で「私は福音を恥としません」と告白しています。福音を恥としてしまいやすい状況が広がる中、敢えてこのような言い方をしたのだと思います。福音はユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことでした(Ⅰコリント1の23)。またすでに信仰者たちに対する迫害も始まっていました。そのような厳しい状況の中にあって、「私は福音を恥としません」とのパウロの告白は、それだけ力強い告白だったことがわかります。このことばが、今の私たちにとっての心からの告白となっているでしょうか。
 パウロもかつてはこの福音につまずき、キリスト者たちを迫害する者でした。そのパウロがなぜ変えられて、このように告白する者となったのでしょうか。それはパウロがここで告げているように福音が「信じるすべての人に救いをもたらす神の力」であることを、彼が体験的に知ったからです。
 福音は、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。ここで「力」と訳されていることばはエネルギーを表す「エネルゲイア」ではなくて、ダイナマイトの語源となった「デュナミス」ということばです。福音の力は私たちに元気をくれるエネルギーではありません。私たちを縛る罪と死と悪魔の支配を破壊し、滅びからいのちへ、サタンの国から神の御国へと私たちを救い出す神の力です。
 その神の力が信じるすべての人に与えられます。信じるすべての人です。ユダヤ人にも異邦人にも与えられます。国籍や言語や文化の違いは関係ありません。この福音を信じ受け入れれば、その人は必ず救われるのです。
 パウロの時代はまだ小さかった福音の広がりが、その後2000年の時を経て、世界中に拡大していきました。それはこの神の力が力強く証しされた結果だったのではないでしょうか。そして福音は信じる人と、その人の人生を必ず変えていきます。その福音が私たちにも及んだことを感謝したいと思います。
 
【2】 福音:神の義が啓示されている
 福音はなぜ信じるすべての人に救いをもたらす神の力なのでしょうか。第一番目に、福音には神の義が啓示されているからです。
 福音が啓示する「神の義」とは第一に神のご性質としての義を表します。それはあらゆる不敬虔と不義に対して神の怒りが発せられる義(18)。義なる神は必ず罪人にさばきをくだされます。
 しかし、ここで示されている「神の義」とはそれだけではありません。なぜなら、その義は「信仰に始まり信仰に進ませる」義であり、人々の心に信仰を生み出す義だからです。これは救い主イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる義でした(3の22)。イエス様が人となって私たちの下に来てくださり、私たちの罪を背負って身代わりとなって処罰されました。そのイエス様を信じる信仰によって神の義が私たちに与えられるのです。
 
【3】 義人は信仰によって生きる
 「神の義」とは二番目に、義とされた人を信仰に始まり、信仰に進ませます。一度信じただけでなく、信仰がその後も継続されていくことがわかります。まさに旧約聖書のハバクク書2章4節でハバククが語った通りに、「義人は信仰によって生きる」のです。
 預言者ハバククが活躍した時代は、信仰者にとっても理解できない悲しいことが多く起きている時代でした。ハバククは「暴虐だ」と言って神に叫びました(ハバクク1の2)。地には暴行と暴虐、不法と苦悩に満ちているのにその現状を神が見過ごしておられるように見えたからです。
 しかし、そんなハバククに対して神のことばが語られました。「もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。」 カルデヤ人がさばかれて、イスラエルが救われる定めの時は必ず来ること。すべては主のご計画の中にあることが示されました。そしてその上で主は「しかし、正しい人はその信仰によって生きる」と語られました。とても神を信じることのできない厳しい状況の中にあっても、主を見上げ、主に信頼すること。それが正しい人の生き方であると、ハバククは教えられたのです。

【4】むすび
 かつてルターには福音によって「神の義」が啓示される、という経験が与えられました。そしてルターも福音によって信じるすべての人に救いをもたらす神の力を経験し、信仰の人に変えられていきました。どうしてでしょうか。みことばを一心に見つめ、そこから離れなかったからです。福音によって神の義が彼自身に啓示されるまで、彼はみことばに留まり続けました。私たちも福音によって神の義をしっかりと啓示していただきましょう。そして「私は福音を恥としません」との告白に生きる者としていただきたいと思います。