みことばを行う人になりなさい       ヤコブの手紙1章22~25節

2023年10月22日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 みことばを聞くことと、行うこと
 ヤコブの手紙に見られる特徴の一つは、「行い」の大切さが強調されて教えられていることです。ヤコブは1章22節で「みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません」と教えています。みことばを聞くだけでなく、聞いたらそのみことばを行うことを神は望んでおられることがわかります。
 しかし私たちは、聞いたことがなかなか行いまでにつながっていかない、という課題を抱えているように思います。あるいは、行いに積極的で活動的であっても、その行いが必ずしもみことばに根差していないこともあります。みことばを聞くことと、みことばを行うことが必ずしもつながっていかないのは、どうしてでしょうか。みことばを聞いて行うために、私たちには何が必要なのでしょうか。

【2】 ただ聞くだけの者
 みことばを聞いても、ただ聞くだけの者となってしまうのはなぜでしょう。それは自分を欺いているからです(22)。私たちは何の自覚もないままに、自分を欺いているのです。どのように欺いているのでしょうか。
 ヤコブは続けて「みことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で眺める人のようです(23)」と語りました。確かに聖書は鏡のような働きをします。私たちはみことばを通して、自分自身の生身の姿を知らされます。私たちは聖書の登場人物の姿を通して、あるいはイエス様やパウロの教えを通して、罪人としての自らを知らされます。パウロがガラテヤ人への手紙3章22節で指摘しているように、「聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました」との経験を与えられていくのです。
 しかし、そこを離れると、自分がどのようであったかを、すぐに忘れてしまいます(24)。そのためにみことばを行う人になれません。
 私たちは自らを欺いていないでしょうか。これが「すべての汚れやあふれる悪を捨て去る(21)」ことのできない原因です。みことばを通して自らの内側にある汚れやあふれる悪が示されても、その姿をすぐに忘れてしまうのですから、とても捨て去ることができません。それゆえに「ただ聞くだけの者」となってしまうのです。

【3】 実際に行う人
 どうすればただ聞くだけの者ではなく、実際に行う人になれるのでしょうか。25節で「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて、それから離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならず、実際に行う人になります」と教えられています。 
聞くだけで終わってしまう人と、聞いて実際に行う人の違いはどこにあるでしょうか。一番大きな違いは、その人がみことばから離れないことです。みことばによって自らの姿を示されたとしても、すぐにみことばから離れるようなことはしません。そのみことばがその人の心に働きかけ、動き始めるまで、ジッとみことばの中に留まり続けます。その人はすぐに忘れる聞き手になることはなく、実際に行う人になります。そして、その行いのゆえに祝福されていくのです。
 みことばから離れずにとどまり続ける時、この人は何を経験するのでしょうか。みことばはここで「自由をもたらす完全な律法」と言い表されています。聖書はすべてのものを罪の下に閉じ込めたのではなかったでしょうか。確かにそうです。聖書を通して私たちは自らの罪人としての姿を思い知らされます。しかし、それは「約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるため」でした。
 私たちはみことばを通して神の愛を示され、私たちのために十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストを信じる信仰へと導かれていきます。そして、罪赦されて、神の子どもとされ、永遠のいのちを与えられる恵みに授かります。私たちは神のみことばによって自由にされる経験を与えられるのです。
 この神の愛を知らされた人は、必ず神を愛する人に変えられていきます。信仰が私たちのうちの生み出す行いとは、神の愛に対する私たちの愛による応答なのです。

【4】 むすび
 私たちはかつて一度、このような神の大きな愛を知らされてイエス様を信じる信仰に導かれました。そして救われて自由になりました。あの時私たちは、神の愛に応えて生きていきたい、と願ったのではなかったでしょうか。
しかし、その後はどうでしょう。ただ聞くだけの者となっていないでしょうか。聞いたその先に、行いが生まれてこない信仰者になっていないでしょうか。
 自分を欺いていないでしょうか。みことばを聞いて自分の姿を知らされても、すぐに忘れてしまっていないでしょうか。それゆえに、自分の内側にある汚れや悪を捨て去ることができず、みことばに生かされることの乏しい信仰者になっていないでしょうか。
 みことばを聞いたら、すぐに離れず、みことばの内に留まり続けようではありませんか。みことばが私たちの内側で動き始め、生き始め、私たちの内側を神の愛で満たすまで、私たちはみことばに留まり続けましょう。そして、神の愛に応えていく者となろうではありませんか。