もしも主が私たちの味方でなかったなら        詩篇124篇1~8節

2023年1月1日 飯能キリスト聖園教会  元旦主日礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 都上りの歌
 詩篇120篇から134篇までの15の詩篇は「都上りの歌」との表題が付けられています。これらは、都エルサレムを目指す巡礼の歌です。特徴は、①ゴールとしての都エルサレムがいつも意識されていること、②そこに至るまでの過程には、様々な危険や戦い、苦しみがあること、しかし③様々な苦しみを体験しながらも、共に励まし合う仲間たちがいること、以上の三つです。彼らはいつも神様の素晴らしさを分かち合い、共に歌いながら旅を続ける、まさに「歌う旅人たち」なのです。
 その姿はまるで教会のようです。教会に属する私たちにも、いつもゴールである天のエルサレムが意識されています。そこにたどり着くまでの道中には様々な試練や闘いがあります。しかし、ともに旅する仲間たちがいて私たちも、いつも励まし合っています。そして素晴らしい神を分かち合いながらともに賛美しています。「都上りの歌」とは、まさに私たちの歌なのです。

【2】 もしも主が味方でなかった時の悲惨
 彼らは互いに何を分かち合っていたのでしょうか。彼らは互いに「もしも主が私たちの味方でなかったなら」と語り合いました。主が私たちの味方でないはずがありません。主は必ず私たちの味方です。しかし、その恵みを、そのありがたみをいつも新鮮に覚え続けるために、「もしも・・・味方でなかったら」と仮定してみるのは有益なことです。
 もしも主が私たちの味方でなかったら、どんなことが私たちに起こるのでしょうか。人々が敵対してきた時に、彼らは私たちを生きたまま丸呑みにしてしまいます(2~3)。彼らの怒りが私たちに向かって燃え上がったとき、大水は私たちを押し流し、濁流は私たちを越えていきます(3~4)。大変な悲劇が私たちを襲うことがわかります。
 この箇所より三つのことに私たちは気づかされます。①私たちは敵対されてしまうことがあるということ、②敵対者の私たちに対する怒りは非常に激しいこと、③その敵対者たちの攻撃に対して私たちは全く無力である、ということ。
 私たちは人々から敵対されてしまうことがあります。どうしてでしょうか。それは私たちの歩みが祝福されているからです。ダビデは王になる前には先代の王のサウロに命を狙われ、王になった後は息子のアブシャロムに命を狙われました。ダビデの行く所で主が勝利を与え、ダビデの人生が豊かに祝福されていたからです。それゆえにダビデは彼らに激しく妬まれてしまいました。
 そしてその妬みは実に激しい怒りを人に引き起こすことがわかります。その怒りが「大水」「濁流」「荒れ狂う水」ということばで表され、その攻撃の凄まじさが「生きたまま丸呑みにする」「大水が私たちを押し流す」「濁流は私たちを越えていく」「荒れ狂う水は私たちを越えて行く」とのことばで表されています。そのような激しい怒りと敵対の前に、私たちは何の抵抗も見せることができず、生きたまま丸呑みにされてしまうのです。
 これが、神が味方でなかった時に私たちが直面する現実です。神が味方でない人生はいかに悲惨でしょうか。

【3】 主が味方である時の安心
 私たち信仰者はそのような悲惨な目に遭うことはありません。なぜならば、私たちの神は私たちの味方だからです。
 もし主が私たちの味方だったとしたら、そこには一体どのようなことが起こるのでしょうか。その時、主は私たちを敵対者たちの歯の餌食にしませんでした(6)。敵対者たちは私たちに向かって罠を仕掛けます(7)。彼らは凶暴なだけでなく、狡猾であることがわかります。
 しかし私たちのたましいは、鳥のように助け出されました。罠は破られ、私たちは完全に救出されたのです(7)。私たちの味方である神は、あらゆる禍いと危険から、私たちを守り、救い出してくださいます。危険は迫っています。私たちは今にも敵の歯の餌食にされそうです。罠にはまりそうです。しかし、そうなりません。主ご自身が私たちを守り、救い出してくださるからです。

【4】 むすび
 そのような体験から賛美が生まれてきます。「ほむべきかな、主。」「私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある。」私たちの味方をしてくださっている方とは、どんな方なのでしょうか。天地を造られた主です。天地万物の創造主なる神、その偉大さは測り知れません。その偉大な方が私たち一人一人の味方なのです。私たちとともにおられるのです。こんなにありがたいことは他にありません。
 この神の偉大さをともに語り合い、分かち合う一年にしていきましょう。そして、この偉大な主を、私たちはともに分かち合いながら、ともに高らかに賛美していきたいと思います。