あなたの戒めを忘れません         詩篇119篇89~96節

2022年9月4日 飯能キリスト聖園教会     礼拝説教要約(若井和生師)

 詩篇119篇の12段落目となり、後半に入りました。私たちは、毎回みことばと、みことばに拠り頼むことの大切さを繰り返し学んできています。今、真理が著しく曖昧にされる時代となってしまいました。その中にあって惑わされることなく神の恵みに生かされるためには、やはりみことばが必要です。

【1】 みことばの普遍性
 なぜ私たちは神のことばであるみことばに信頼できるのでしょうか。それが、とこしえから天において定まっていることばだからです(89)。神のことばは天地創造の時から、天において定まっていました。神はことばによって天地万物を創造されました。みことばによって地を据えられたので、地は堅く立っています(90)。
 しかも、それは今日も神の定めにしたがって堅く立ち続けています(91)。みことばによってこの世界を造られた神が、みことばによってこの世界を保持しておられます。万物の始まりも、継続も、神の意志であり、みことばのみわざなのです。
 詩篇の著者はこの段落の最後の96節で「私は、どんな全きものにも、終わりがあることを見ました」と語りました。この世のものは、どんなものにも終わりがあります。人もいずれはいなくなります。しかし神の仰せは「実に広い(96)」と、彼は語りました。どれだけ広いのでしょうか。とこしえからとこしえまでです。神のことばの真実はとこしえから定まっており、代々に至ります。
 はかないこの世の中にあって、信頼できる唯一のことばは、とこしえからとこしえまで天において定まっている神のことばだけです。「人はみな草のよう、その栄えは草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ(Ⅰペテロ1の24~25)。」 私たちは、天においてとこしえに定められているみことばに、信頼していきたいと思います。

【2】 みことばによって生かされる
 なぜ私たちはみことばに信頼できるのでしょうか。二番目に、みことばが私たちにいのちを与えるからです。「もし、あなたのみおしえが私の喜びでなかったら、それなら私は、私の苦しみの中で滅んだでしょう(92)」。みことばとみことばに対する信頼がなかったなら、彼は苦しみの中で滅んでいた、と告白しました。
 彼は神の戒めを決して忘れません、と告白しています。その理由は、それによって神が彼を生かしてくださったからでした(93)。つまり彼はみことばによって生かされました。みことばによっていのちを与えられました。みことばによって彼が命拾いしていることがわかります。彼はもちろん生きていました。死んだわけではありません。しかし、みことばによって新しい神のいのちに生かされる者とされたのです。
 私たちもみことばによってイエス・キリストを信じる信仰へと導かれ、新しいいのちに生かされる者となりました。古い自分に死んで、キリストの新しい復活のいのち、永遠のいのちに生かされる者となりました。
 この世では、生きていても実際には死んでいる人が多いのではないでしょうか。与えられたいのちを無為に消費して、滅びに向かって歩んでいる人々が多いのではないでしょうか。みことばによって生かされた恵みに感謝し、ますます、みことばによって生かされる者とされていきたいと思います。

【3】 戒めを愛する
 そのような恵みの体験をいただいて、彼は「私はあなたのもの」と告白しました(94)。神のものとされた恵みを喜んでいます。彼から危険が去ったわけではないようです。悪者どもが相変わらず彼を滅ぼそうと狙っていました(95)。しかし、彼はその中にあって「私はあなたの戒めを求めています」と告白し(94)、神の戒めを求めました。
 神の戒めを求める彼の姿は、彼が心から神を愛していることの現れです。私たちは普通、戒めを求めません。戒められることが私たちは嫌いだからです。よって私たちは神を愛すると告白していても、あまり戒めを求めません。私たちは制約されることが嫌いだし、結局は自分の思い通りに生きていたいからです。
 ところがこの詩篇の著者は神の戒めを慕い、求め、忘れませんでした。戒めは彼の内側にある罪を示し、それを罰します。しかし彼はその先にある恵みを体験しました。その明らかになった罪を神は赦し、清め、罪の支配から解放してくださったのです。それゆえに彼は新しいいのちに生かされる者となったのです。
 
【4】 むすび
 私たちは果たして神の戒めを愛しているでしょうか。その先に用意されている神の恵みを体験しているでしょうか。その時に、みことばは私たちにとっての喜びとなります。そしてみことばに生かされる者となります。
 みことばをよく学ぶのに、みことばに生かされていない人は、まだ戒めを求めていない人です。神のことばによって自らの姿が示されることを拒んでいる人です。その人は恵みを体験することができません。是非神の戒めを求めていきましょう。戒めによって、神が生かしてくださる恵みを体験し、みことばに生かされる者となりましょう。