罪の報酬、神の賜物         ローマ人への手紙6章20~23節

2022年9月25日 飯能キリスト聖園教会    帰天記念礼拝説教(若井和生師)

 今年も帰天記念礼拝を迎えることができ、感謝します。コロナ禍の中にあって、帰天者の御家族の方々をこの礼拝堂にお招きすることができないのは残念ですが、お一人おひとりにイエス・キリストにある復活の希望が届けられますように、私たちは祈りたいと思います。

【1】 死
 疫病が流行り、甚大な自然災害があちこちで起こり、戦争も勃発し、死が非常に身近に感じられる昨今となりました。私たちに果たして死のための備えはできているでしょうか。いついのちが絶たれても、大丈夫な状態でしょうか。
 人はなぜ死ぬのでしょう。聖書には「罪の報酬は死です(23)」と記されてあります。私たちはかつて「罪の奴隷(20)」でした。罪が私たちを支配する王であり、私たちはその王である罪に従う奴隷だったのです。自分が「罪の奴隷」であり、罪を王として仕えているという意識を私たちはもっていないと思います。「自分は自分のために生きている」と、私たちは普通思っているはずです。しかしそれは、あくまでも表面的なことです。実は私たちは心の深いところで、罪に従う罪の奴隷なのです。
 「報酬」と訳されているギリシャ語「オプソーニア」は、「給料」という意味で、特に当時は軍隊用語として使われていました。兵士たちは身体を危険にさらし、額に汗を流しながら王に仕えます。その結果として必ず報酬を与えられます。そのようにして私たちも罪という王に必死になって仕え、その結果与えられる給料が「死」なのです。つまり、私たちは死ぬために生きているのです。
 しかも、その死とは肉体の死ではありません。それは肉体の死の後に待っている霊的な死であり、神との永遠の分離であり、私たちが神のさばきを受けて永遠に滅ぼされると言う死です。これが私たちの罪の結果であり、この現実を私たちは変えられません。
 それはあまりにも悲しく、絶望的であり、そこには全く希望がありません。しかし希望がないことを認めた時に初めて、私たちは聖書のメッセージに真剣に耳を傾けることができるのです。
 
【2】 永遠のいのち
 神様はそのような私たちの絶望の先に、本当の救いを用意しておられます。「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです(23)。」 「罪の報酬としての死」と「神の賜物としての永遠のいのち」がきれいな対称をなして示されています。それは私たちの仕える王が、罪から神に変わったことを示しています。もはや私たちは罪から解放されて罪の奴隷ではなく、神に仕える神の奴隷となりました。
 罪の場合は「報酬」だったのに、神の場合は「賜物」です。この賜物とは「プレゼント」のことです。当時、王は特別に嬉しいことがあった場合、兵士たちにプレゼントを与えることがあったそうです。そのように、神様も私たちにプレゼントをくださるのです。それは私たちの努力やがんばりの結果として与えられるものではありません。気前のよい神様が私たちの努力や状態に関係なく、無条件に与えるものです。
 しかもそれは「永遠のいのち」です。「永遠のいのち」とは、神様につながっている新しいいのちのことです。先に帰天されていかれた方々は皆、この「永遠のいのち」を神様から賜物として与えられました。神様につながる新しいいのちに今も生かされています。それゆえにイエス様が復活されたように、帰天者の皆さんも主の再臨の日に、死から解き放たれて復活するのです。

【3】 キリスト・イエスにある
 この「永遠のいのち」は、どこのあるのでしょうか。「私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのち」と記されてあります。それは私たちの主イエス・キリストのうちにあります。「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません(Ⅰヨハネ5の12)。」 御子イエス・キリストを持つ者、つまりイエス・キリストを救い主として信じる者には、このいのちが与えられることがわかります。
 しかもこのいのちは死んだ時に与えられるいのちではありません。イエス・キリストを信じ受け入れた時に与えられます。イエス様を信じ受け入れた人には、すでにこのいのちが与えられています。
 それゆえに私たちはもはや死を恐れる必要がありません。私たちはいつ死んでも大丈夫なのです。

【4】 むすび
 私たちは果たして死ぬ準備ができているでしょうか。神様とお会いする準備は整っているでしょうか。先に帰天されていった帰天者の皆さんのように、私たちもイエス・キリストを救い主として信じ、この永遠のいのちを得て平安を得ましょう。死は「報酬」ですが、永遠のいのちは「賜物」であることに感謝し、このプレゼントをしっかりと受け止めていく者となりましょう。