私の足のともしび、道の光         詩篇119篇105~112節

2022年9月18日 飯能キリスト聖園教会     礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 みことば:足のともしび、道の光
 「あなたのみことばは私の足のともしび、道の光です」 この105節のみことばは、詩篇119篇の中で一番よく知られているみことばだと思います。  ここで語られている「ともしび」「光」とは、おそらく歩く時に手にするランプのような小さな光です。せいぜい自分の足元を照らすぐらいしかできません。しかし、足元が照らされていると私たちは安心です。危険がないことを確認できるからです。また「道の光」によって、私たちは自分の行くべき方向を確認することができます。
 足元だけでなく全体が見えた方が、私たちにとっては嬉しいのかもしれません。しかし、全体が見えたらおそらく私たちは神様に頼りません。みことばも必要ありません。神様は私たちをみことばによって一歩一歩、導いてくださるのです。

【2】 いのちの危険から私たちを守るみことば
 文脈に則してこのみことばを味わう時に、ここに記される「足のともしび」「道の光」とは、私たちを危険から守るともしびであり、光であることがわかります。
 詩篇の著者はこの時、どのような状態だったでしょうか。彼は107節で「私はひどく苦しんでいます」と告白しています。何に苦しんでいたのでしょうか。110節に記される悪者どもの存在に苦しんでいました。しかし、それが彼にとっての一番大きな苦しみではありませんでした。彼にとっての一番の苦しみは、彼の外側にではなく、彼の内側にありました。みことばのとおりに生きていけないという、彼の内面の苦しみだったのです。みことばの大切さを自覚し、みことば通りに歩んで行きたいとの願いをもっているのに、それを阻むものが彼の中にありました。
 彼は「私はいつもいのちがけです」と告白しました(109)。彼が生きるか、死ぬかの瀬戸際に立たされていることがわかります。彼は罪のもたらす深刻な結果を知っていました。みことばを与えられながら、それに聞き従わないことが神に対する冒瀆であり、みことばに対する侮りであること、その結果は死であることを彼は自覚していたのです。
 私たちには罪のもたらす悲惨な結果が自覚されているでしょうか。恵みが当たり前になっている私たちは、自分の罪とあまり真剣に向き合わない傾向があります。罪の深刻さを忘れている時があります。そして平気で罪を犯し、悔い改めることもなく、そのままで神に受け入れられると誤解していることがあります。そして知らず知らずのうちに、神の祝福を失ってしまうのです。
 みことばはそんな私たちを照らします。みことばによって私たちの罪を示し、私たちを悔い改めに導き、私たちを守ってくれるのです。

【3】 敵の誘惑から私たちを守るみことば
 詩篇の著者は、さらなる苦しみを抱えていました。それは悪者どもの存在です。悪者どもが彼に対して罠を設け、彼のいのちを狙っていました。この悪者どもは彼を騙す、狡猾な敵であることがわかります。彼を自分の弱さや罪の中に閉じ込め、みことばから彼を断ち切り、神に信頼できないようにしていることがわかります。
 しかし彼は「それでも私は、あなたの戒めから迷い出ません」と告白しました(110)。みことばが彼を守ってくれました。しかも彼は「私はあなたのさとしを永遠に受け継ぎました。これこそ、私の喜びです(111)」と声を上げました。「受け継いだ」と訳されていることばは完了形で、直訳は「相続した」「所有した」です。彼は神のみことばを相続し所有しました。それは永遠に彼のものです。そのみことばが与えられていることが彼の心からの喜びでした。そのみことばによって、彼は敵の狡猾な誘惑と攻撃から守られたのです。みことばは私たちを敵の誘惑から守ってくれるのです。

【4】 神のおきてを行うことに心を傾ける
 彼の願っていることは、みことば通りに生きること、みことばを行うことでした。彼は106節で、神の義の定めを守ることを誓い、それを果たすと宣言しました。信仰者の生き方とは、神の前で誓った誓いを果たし続けることです。神に従う決意を日々新たにして主に従い通すことです。
 しかし同時に彼は、自分の誓った誓いを果し続けることの難しさも理解していました。「私はあなたのおきてを行うことに心を傾けます。いつまでも、終わりまでも。(112)」。彼は自分の心の不安定さがわかっていました。いのちの道ではなく、すぐに逆側にある「悪の道」「偽りの道」に心を傾けてしまいやすい、自分の傾向も自覚していました。そんな中にあって彼は「あなたのおきてを行うことに心を傾けます」と告白しました。彼は自分で神のおきてを行おうとしていません。神のおきてを行うことに心を傾けているだけです。
 私たちは自分の力や努力によって、みことばを行うのではありません。自分の力で、みことば通りに生きることができると思っているとするならば、それはうぬぼれです。私たちに必要なのは、神のみことばを行うことに私たちの心を傾けること。その時に、みことばが私たちを守り、みことばを行う力を私たちに与えてくださるのです。
 みことばは私たちを守り、導いてくださいます。このみことばに導かれて、私たちは信仰の歩みを一歩一歩進んでいきたいと思います。