すべての師にまさる賢さ           詩篇119篇97~104節

2022年9月11日 飯能キリスト聖園教会     礼拝説教要約(若井和生師)

 詩篇119篇の第13段落目を読んで気づかされることは、①二つの感嘆文が記されてあること、②「~よりも」という表現が多く、いろいろなものとの比較がなされていることです。神のことばが、他とは比較できないくらい素晴らしいものであることが、驚きと感動とともに証しされています。

【1】 見極めができる
 一つ目の感嘆文は97節、「どれほど私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう」です。直訳は「私はあなたのみおしえを何と愛していることか!」となり、詩篇の著者のみことばに対する愛が強く告白されています。
 なぜ彼は、みことばをこんなにも深く愛しているのでしょうか。その理由は、みことばが彼を賢くするからです。どれくらい賢くするのでしょうか。彼は三つの者と比較しながら、その賢さについて説明しています。
 第一に、みことばは彼を敵よりも賢くします(98)。敵はとても賢く、巧妙です。私たちの弱点をよく知っていて、私たちをたくみに誘惑し攻撃してきます。
 イエス様が荒野での40日の試みを経験された時、悪魔はイエス様をたくみに誘惑しました。イエス様が神様にではなく自分の力に拠り頼むように、さらに悪魔の前にひれ伏せばこの世の栄華を与えると、悪魔はイエス様をそそのかしたのです。しかし、それらの誘惑のすべてを、イエス様はみことばによって退けられました。みことばによって勝利されたのです(マタイ4の1~11)。みことばがあれば安全です。なぜならば、みことばは私たちを敵よりも賢くするからです。
 第二に、みことばは彼をすべての師よりも賢くします(99)。イエス様は12歳になられた時に、エルサレムの宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられた時がありました。イエス様の両親のヨセフとマリアはイエス様が迷子になったと思い、慌ててエルサレムに戻ってきたのですが、イエス様は宮で教師たちと問答をしていました。それを聞いていた人たちはみな、イエス様の知恵と答えに驚きました。小さい時からみことばをよく学んでいたイエス様に、教師たちも驚くような賢さがあったからです(ルカ2の41~50)。
 第三に、みことばは彼を老人たちよりも賢くします(100)。人生経験豊富な老人たちは、最高の知恵者と見なされていました。人生の難しい問題に直面した際に、その状況をどう識別し判断するかの知恵は、多くの場合、老人たちから与えられていました。ところが彼はそんな老人たちよりも見極めができたのです。
 どうしてでしょうか。それはみことばがとこしえに彼のものであり(98)、みことばが彼の思いであり(99)、彼がみことばを守っていたからでした(100)。つまり彼が、みことばが彼の内にしっかりと確保されていたことのゆえに、敵や教師たちや老人たちをはるかにしのぐ賢さを、彼は与えられていたのです。
 その結果、彼は悪の道にも足を踏み入れず(101)、偽りの道を彼はことごとく憎みました(104)。みことばが彼に見極めを与えたからです。
 「悪の道」「偽りの道」とは多くの場合、私たちには魅力的な道に見えるものです。それゆえに私たちにとって見極めが肝心です。今の時代にこの識別力がどんなに求められていることでしょうか。偽りだらけの世の中になってしまいました。みことばをしっかりと心に蓄えて、みことばによる賢さを求めていきましょう。

【2】 蜜よりも甘い
 二つ目の感嘆文は103節、「あなたのみことばは私の上あごになんと甘いことでしょう」です。それは蜜よりも甘いと告白されています。みことばが彼にとっては驚きの甘さだったことがわかります。
 サウル王の息子ヨナタンは、戦いの途中で蜜蜂の巣を見つけました。それを手につけて口に入れたら彼の目は輝いた、と記されてあります(Ⅰサムエル14の27)。聖書の中で蜜は最も滋味で、それを食べた人に喜びを与え、身体と心を健やかなものにする食物として、紹介されています。神のことばは、その蜜よりも甘いと詩篇の著者は告白しました。
 これは体験している人のことばです。みことばの甘さ、美味しさを体験しているからこそ、このように告白できるのです。そしてこの味を知っている人は、誰に言われなくても自分でその味を求めて、みことばを求め続けると思います。この甘さをどんなに味わっても、血糖値やコレストロール値が上がる心配はありません。身体も心もたましいも、ますます健やかになるのです。このみことばのもたらす味わいを、私たちも豊かに体験する者でありたいと思います。

【3】 いつも私の思いになっている。
 どうすればこのような体験が与えられていくのでしょうか。この詩篇の著者は「それがいつも、私の思いとなっています(97)」「あなたのさとしが私の思いだからです(99)」と告白しました。彼はいつもみことばを味わい続けました。
 神のことばは噛めば噛むほど、味わいが豊かになります。みことばを聞くだけでなく、そのみことばを思いめぐらし、そのみことばに留まり、そこで語られている神のみこころを覚える中で、みことばが私たちの中で生き始めます。みことばの美味しさを味わい、賢さを与えられていくのです。そのように私たちはみことばの素晴らしさを体験し、みことばに生かされていく者となりましょう。