22.8.21説教要約

2022年8月21日 飯能キリスト聖園教会     礼拝説教要約(若井和生師)

 教会で今年開かれる子どもサマーキャンプでは、私が創世記1章から「人間は神様によって造られた」という話しをします。人間が神様によって造られたとは、私たちの存在には意味と目的が必ずある、ということ。その事実を子どもたちに是非知ってもらいたいと思っています。
 ところが私たちには問題があります。造られた者としての意味と目的を見失ってしまう、という問題です。詩篇119篇の著者も、今日の箇所でその問題を自覚していることがわかります。

【1】 神に造られ整えられる人間
 「あなたの御手が私を造り、私を整えてくださいました。どうか、私に悟らせ、私があなたの仰せを学ぶようにしてください。(73)」 神様が私たちを造ってくださり、さらに整えてくださる方であることがわかります。私たちは造られましたが、まだ整えられている途中です。
 神様によって造られた時の私たちが不完全だったから、その後の整えが必要なのでしょうか。そうではありません。神様は私たちをよいものとして造られました。ところが私たちは罪を犯し、神から離れ、神に反逆し、罪の結果と影響を身に受けることになりました。私たちは罪の性質のために歪んだり、曲がったりしてしまったのです。
 その私たちを神様は整えてくださいます。どのように整えてくださるのでしょうか。私たちに悟りと学びを与えることによってです。神様は、みことばの学びによって私たちに悟りを与えてくださるのです。
 私たちはどれだけ、みことばに親しんでいるでしょうか。どれだけ、みことばを学んでいるでしょうか。私たちが整えられるために、みことばが欠かせません。みことばを日々学び、みことばに私たちの思いを潜めていく者となりましょう。

【2】 神の正しいさばき
 神様はどのようにして、私たちをみことばによって悟らせてくださるのでしょうか。この段落を読んで一つ気づかされることがあります。この詩篇の著者が苦しんでいることです。彼は「あなたが…私を苦しめられた」と75節で告白しています。その苦しみが神様から来ていることを、彼は自覚していました。
 彼はその前に、神のさばきが正しいことを知っている、と告白しています。彼がこの時経験していた苦しみは、みことばによって生身の自分が明らかにされたことの苦しみ、罪深い自分の罪が明らかにされたゆえの苦しみであったことがわかります。さばき主である神の御前で、彼の隠されていた罪が明らかにされたからです。
 このような苦しみを、果たして私たちは経験したことがあるでしょうか。私たちの罪を意識する感覚は、とても自己中心です。自分の意識される範囲でのみ、私たちは自分の罪を意識しがちです。人に迷惑をかけたり、傷つけたりした時には強い罪意識を感じても、誰にも迷惑をかけず真面目に生きている人は、自分が善人であると思いやすいのです。
 ところが聖書の光に照らされることによって、私たちが今まで罪であると思わなかったことまで、罪であると知らされます。救われる前よりも、救われた後の方が私たちの罪意識は深まるのです。

【3】 神の真実
 詩篇の著者は同時に、「あなたは真実をもって私を苦しめられた」と語っています。神はいたずらに人を苦しめているのではありません。無慈悲な裁判官のように私たちに判決を下し、見放しているわけではありません。真実をもって苦しめられました。その罪の苦しみの中で、人が神に立ち返ることを願っています。
 詩篇の著者は続けて祈りました。「どうか、このしもべへの約束にしたがって、あなたの恵みが私の慰めとなりますように。どうか、あわれみを私に臨ませ、私を生かしてください(76~77)。」 彼は知っていました。罪人である彼を罪人であるにも関わらず、神は愛してくださることを。それが神の約束であることを。その神の真実は変わらないことを。ゆえに彼は神の恵みとあわれみとにすがったのです。
 私たちは罪の苦しみの中で、どれだけ神の恵みとあわれみにすがっているでしょうか。私たちにとって神の恵みとあわれみとはイエス・キリストです。自らの罪人としての姿を示される中、恵み深いイエス様との深い出会いを経験していきたいと思います。

【4】 むすび
 この段落の中で詩篇の著者は「どうか…してください」と何度も繰り返し祈っています。みことばの光に照らされた彼が、神の恵みとあわれみ、神の守りと助けを祈りつつ、全き者として整えられることを願い求めていることがわかります。
 「みことばの戸が開くと、光が差し、浅はかな者に悟りを与えます。(詩篇119篇130節)。」 神様はみことばを通して私たちの罪を照らし、その苦しみの中で私たちを恵みによって満たしてくださいます。私たちも是非祈りましょう。罪人である私たちに神様が悟りを与えてくださるように。そして私たちを全き者として整えてくださるように、祈り続けようではありませんか。