苦しみにあったことは・・・幸せ      詩篇119篇65~72節

2022年8月14日 飯能キリスト聖園教会     礼拝説教要約(若井和生)

私たちの人生には、いつも苦しみがあります。しかしクリスチャンは詩篇119篇71節のように、「苦しみにあったことは、
私にとって幸せ」と告白することができます。何と幸いなことではないでしょうか。
苦しみにあったことがなぜ幸せなのでしょうか。「苦しみ」と「幸せ」は、どのようにつながっているのでしょうか。

【1】 苦しみ
「苦しみにあったこと」と完了形で記されていることに私たちは注目しなければなりません。苦しみにあっている時その時が、幸せなのではありません。その苦しみを経て、あとで振り返って「幸せだった」と告白できるのです。よって私たちは今苦しんでいる人、悲しんでいる人に向かって「あなたは幸いですね」などと言ってはいけません。むしろ悲しみの時にしっかり悲しむこと、苦しみの時にしっかり苦しむことが大切です。その悲しみや苦しみの体験の中で得られるものがあります。それが尊いのです。

【2】 苦しみにあったことは幸せ
それでは苦しみにあったことはなぜ、その苦しみを経験した者にとって幸せなのでしょうか。詩篇119篇の9段落目の全体を読んで気づくこと、それはトーブ(へブル語の「良い」という意味のことば)が頻繁に使われていることです。65節、66節、68節、72節などで6回も使われています。68節で「いつくしみ深い」と訳されていることばも、72節で「まさります」と訳されていることばもトーブです。つまり聖書で「良い」と訳されていることばは神様の恵み深い、慈しみ深いご性質を表していることばであることがわかります。 そして71節で「幸せ」と訳されていることばが、やはり「トーブ」なのです。つまり、この箇所で言う「幸せ」とは、神様のご性質がこの著者の上に及んだ結果であることがわかります。

【3】 苦しみを通して得た神の恵み
苦しみの中で神様のご性質が彼にどのように及んだのでしょうか。「それにより、私はあなたのおきてを学びました」と彼は告白しました。苦しみにあったことにより、彼は神様のおきてを学びました。それはどんな「おきて」だったのでしょうか。 67節で彼はこのように告白していました。「苦しみにあう前には、私は迷い出ていました。しかし今は、あなたのみことばを守ります」。苦しみにあう前と後で、彼は大きな変化を経験したことがわかります。苦しみにあう前の彼は迷い出ていました。ところが苦しみにあったことをきっかけとして、彼はみことばを守る者となり、本来の正しい道に引き戻されたことがわかります。 なぜ彼は迷い出てしまったのでしょうか。二つの理由が考えられます。まず彼は自分の判断と知識とに拠り頼んでいました。彼は66節で「良い判断と知識を私に教えてください」と神様に懇願しています。神様から来る判断と知識を彼は求めました。以前の彼が自分の判断や知識に頼った結果、迷い出てしまい苦しんだからです。そのような体験を経て、彼は主の判断と知識とを切望する者に変えられました。 もう一つの理由は高ぶる者の存在です。彼は、「高ぶる者」からぶつけられるそしりや蔑み(22)、嘲り(51)に苦しめられていたことがわかります。その「高ぶる者」が彼を「偽りで塗り固めた」と69節で彼は告白しています。彼は、「高ぶる者」の影響に支配されそうになっていたことがわかります。 私たちにとって人から「見下される」ことくらい辛いことはありません。人から見下される経験をした時、私たちの心に普通起こる反応はおそらく、「見返してやりたい」との欲求ではないでしょうか。見下す相手に復讐するために、今度は自分が相手を見下したいと願ってしまいます。その結果、自分も同様に「高ぶる者」になってしまい、結果的に偽りの価値観で塗り固められてしまうのです。そしてそのような自己中心の性質にとらわれてしまうことによって、私たちは他人の痛みに鈍感になります。私たちの心も「脂肪のように鈍感(70)」になってしまうのです。 詩篇の著者も「高ぶる者」のそのような影響を受けて迷い出てしまい、苦しみを経験しました。しかし、その中から本来の彼の居場所へと引き戻されるように導かれました。何によって彼は引き戻されたのでしょう。みことばによって、彼は本来の道に引き戻されました。 主はみことばのとおりに彼に良くしてくださいました(65)。彼は神のみおしえを喜んでいます(70)。それは彼にとって幾千の金銀にもまさる程大切なものとなりました(72)。みことばが彼にとっての喜びとなったのです。

【4】 むすび
苦しみにあったことは、私たちにとっても幸いです。苦しみを通して私たちは自らを知らされるからです。苦しみを通して、自分が本来の軌道から外れていることを知らされます。さらに、私たちはみことばによって本来の道に導かれます。迷い出ていた私たちが、みことばによって神様の下に引き戻されていきます。そして、ますますみことばを喜ぶ者に変えられていくのです。その一連の導きが私たちにとって幸せなのです。 苦しみを通して与えられる神のくすしいみわざのゆえに、主を賛美しましょう。