あなたの救いが、みことばのとおりに      詩篇119篇41~48節

2022年7月10日 飯能キリスト聖園教会     礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 もたらされる恵み
 「主よ、あなたの恵みが私にもたらされますように(41)」。聖書の中で一番大事なことばの一つ「恵み」が、詩篇119篇の中で初めて語られました。そのタイミングにも注目したいと思います。
 この詩篇の著者は、みことばを切に求めています。そのような強い思いの裏側には自分の無力さに対する失望がありました。神の祝福の道を歩みたいと願いつつ、すぐに、自分の偽りの道に戻されてしまう不安を彼は抱えていました。みことばを求めながら、不正な利得やむなしいものに傾いてしまいやすい弱さを、彼は意識していました。40節で彼が告白している通りに、彼は自分の力ではなく、神の義のわざにより生かされたいと願っていたのです。
 それを可能にするのが「恵み」でした。恵みは神様から一方的にもたらされるものであることがわかります。そして恵みとは「救い」であり、それは「みことばのとおりに」与えられるものです(41)。
 私たちの神様は恵み深い神様です。そして、恵みとまことはイエス・キリストによって実現しました(ヨハネ1の17)。罪人である私たちのためにイエス様が十字架にかかって死んでくださいました。そのイエス様を信じる信仰により私たちは救われ、神の子どもとなりました。そして今、私たちは神の家族の一員です。これらすべてが恵みです。神様から無条件に一方的に与えられました。その与えられた恵みを大切にし、無駄にしないように気をつけたいと思います。

【2】 恵みをはばむもの
 これだけの恵みを与えられているにも関わらず、私たちは時々、自分の手で義を勝ち取りたくなってしまいます。自分の行為、自分の能力、自分のふさわしさによって義を獲得したいとの性質が、私たちの内にしみついていて取り除くことができず、それゆえに恵みを忘れてしまうのです。
 「そうすれば、私をそしる者に対して、言い返すことができます(42)」。詩篇の著者はこの時、そしられていたことがわかります。そして、そしられても「言い返すことができる」と告白しています。これは復讐心に駆られて口で攻撃する、という意味ではありません。ふさわしく応答し、証言する、という意味の「言い返す」です。そしられて、ただ黙って忍従するのではなく、怒りのままに攻撃的になるのでもなく、穏やかな心で相応しい態度で、そしる人に対応できる、と彼は告白しているのです。
 彼を根底から支えているものがありました。それが真理のみことばです。それゆえに彼は「私の口から、真理のみことばを取り去ってしまわないでください(43)」と告白しています。真理のことばによって彼の心も、身体も、口も守られていたことがわかります。
 私たちも人からそしられて、自分に対する自信を失ってしまうことがあります。あるいは、自分を自分でそしってしまうこともあるのではないでしょうか。弱い自分、罪深い自分、なかなか成長しない自分、役に立たない自分を意識して、落ち込んでしまうこともあるのではないでしょうか。そして、せっかく神様から与えられている恵みを見失ってしまうことがあるのではないかと思います。
 私たちも真理のみことばに支えられながら、言い返そうではありませんか。「確かに私は罪人です。小さくて弱い者です。あまり役に立たないものかもしれません。…しかしそれでも、私は神に愛されています。イエス様はこんな私のために死んでくださいました。その神に選ばれて今、私はここにいます。」 そのように私たちも言い返したいと思います。真理のみことばに支えられながら、信仰を告白する者でありたいと思います。

【3】 恵みに生かされる時
 恵みに生かされていく時に、私たちはどうなるのでしょうか。この詩篇の著者は「そうして私は広やかな所に歩いて行きます(45)」と告白しました。人のことばではなく、神のことばに信頼しているからです。さらに「私はあなたの仰せを喜びます。それを私は愛します(47)」と続けました。みことばに支えられ、守られ、生かされていく中で、みことばが喜びとなりました。そして「私は、愛するあなたの仰せを求めて両手を上げ、あなたのおきてに思いを潜めます(48)」との告白に導かれました。みことばに感謝し、喜びながら、みことばに対する信頼がどんどん深められていることがわかります。

 私たちは神の恵みによって生かされているでしょうか。それとも自分の努力で生きているでしょうか。与えられた神の恵みによって義とされ、神に受け入れられる道を歩んでいるでしょうか。それとも自分の行為やふさわしさによって自分の手で義を獲得する道を歩んでいるでしょうか。
 後者の道は、歩めば歩む程、苦しくなるだけです。しかし恵みによって生かされる道は広やかな所に歩いていく道、喜びの道、そして愛してくださる神様に愛をもって仕えていく道です。どちらの道を私たちは歩んで行くでしょうか。主の恵みによって生かされる道を歩んで行きましょう。