主のみおしえに歩む人々             詩篇119篇1~8節

2022年6月5日 飯能キリスト聖園教会     礼拝説教要約(若井和生師)

 聖書の中で一番長い詩篇119篇は「幸いなことよ」ということばから始まります。詩篇そのものの始まりである1篇も、「幸いなことよ」から始まり、詩篇全体のテーマが「幸い」であることがわかります。神様は私たち一人ひとりの幸いを願っておられるのです。聖書の教える幸いとは一体どのようなものでしょうか。

【1】 罪人の道から守られる
 詩篇119篇の著者は、「全き道を行く人々」「主のみおしえを歩む人々」「主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人々」が幸いであると教えています。
 主のみおしえに歩む人々がなぜ幸いなのでしょうか。その人は不正を行わず、主の道を歩むからです(3)。つまり主のみおしえがその人を罪の誘惑からも、罪そのものからも、そして不正からも守ってくれるのです。
 詩篇1篇1節では「悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人」が幸いである、と歌われていました。「歩む」→「立つ」→「着く」と使われる動詞の変化の中に、罪の中を歩んでいた人が、その中に留まり、さらにそこに居座ってしまうという罪の恐ろしさが示されています。自らの罪によって支配され、人生を破壊されてしまう人々が何と多いことでしょうか。主のみおしえである神のことばは、そのような罪の危険から私たちを守ってくれるのです。

【2】 神との交わりの中で生かされる幸い
 主のみおしえに歩む人々はなぜ幸いなのでしょうか。二番目に、その人はみことばを通して神様との親しい関係に生かされるからです。「あなたは戒めを仰せつけられました。(4)」 3節まで主のみおしえに歩む幸いについて教えていた著者が、4節に入ると「あなたは…仰せつけられました」と語り、神様との個人的な対話を始めていることがわかります。
 この詩篇の著者はみことばの内に神の語りかけを聞き、主がそのような戒めを自分に仰せつけられたと感じました。そして「どうか、私の道が堅くされますように(5)」と祈り始め、「私は直ぐな心であなたに感謝します(7)」と神様に感謝を表し、「どうか私を見捨てないでください(8)」とお願いしています。神様との親しい交わりを彼が経験していることがわかります。彼は神様を「あなた」、自分を「私」と呼び、神様との個人的な関係の中で歩んでいるのです。
 聖書のことばは単なる記述されたことばではありません。それは、主の私たちに対する語りかけです。聖書を読む時に大事なのは、その中身を頭で理解することだけではありません。そのみことばの内に主の御声を聞くことが大事です。イエス様も「聞く耳のある者は聞きなさい(マルコ4の9)」と語り、聞くことの大切さを教えておられます。そして、主の御声は私たちの内に応答を引き起こします。そのようにして神様との親しい交わりの中で私たちは生かされるのです。
 私たちはみことばを通して、どれだけ御声を聞いているでしょうか。私たち一人ひとりに今、主が語りかけておられることばを聞き漏らさないようにしましょう。

【3】 「主の道」が「私の道」である幸い
 主のみおしえに歩む人々はなぜ幸いなのでしょうか。三番目に「主の道」が「私の道」だからです。詩篇の著者は「まことに彼らは不正を行わず、主の道を歩みます」と3節で告白しました。みおしえに歩む人々は、「主の道」を歩むように導かれることがわかります。
 その詩篇の著者が5節において「どうか、私の道が堅くされますように」と祈っています。ここで彼が語る「私の道」と、3節で告白した「主の道」は違う道ではありません。同じ道です。つまり、「主の道」が「私の道」、自分の歩む道になっているのです。それは彼が神様のご計画の中で生かされていることを示しています。
 なぜ私たちはこの世に生まれてきたのでしょうか。なぜ今、私たちはこの世に存在しているのでしょうか。それは神様が永遠のご計画の中で、私たちを造られたからです。私たちは偶然、この世に存在しているわけではありません。何らかの神のご計画があって生かされているのです。その神様のご計画の中で生かされている時、私たちは幸せです。なぜならば、私たちはその時、この世に生まれてきた目的を果たしているからです。
 私たちはキリスト者になった後、自分の計画が先にあって、その計画の実現のために神様にお願いしたり、助けてもらったりする段階があると思います。ところが信仰の深まりの中で、神様のご計画の一端を示され、その中に自分が位置づけられている事実を知らされる時が来ます。そして私たちは自分の願いの実現ではなく、神様のみこころの実現のために、自らが用いられることを願う者へと変えられていきます。その時に深い平安と幸いとを与えられていくのです。

【4】 むすび
 みことばによって罪人の道から守られ、主との親しい交わりに加えられ、さらに主の道を歩むことができたならば、それは何と幸いなことでしょうか。日々の歩みの中でみことばを通して語られる御声に耳を傾け、神様との親しい交わりを体験していきましょう。