私は地では旅人です            詩篇119篇17~24節

2022年6月19日 飯能キリスト聖園教会     礼拝説教要約(若井和生師)

 宗教改革者のルターは聖書をドイツ語に訳しました。それゆえにその後のドイツの人々は、自分のことばで神の御声を聞くことができるようになりました。それは、大変大きな喜びだったのです。私たちも日本語で聖書を読める恵みを覚えましょう。

【1】 私の目を開いてください
 とは言っても、聖書を難しく感じてしまう私たちです。そして私たちが聖書を難しく感じてしまう一因が、今日の箇所に示されています。「私の目を開いてください。私が目を留めるようにしてください。あなたのみおしえのうちにある奇しいことに(18)。」 私たちの目が閉ざされているために、私たちは神のことばの奥義を自分の力で知ることができないのです。
 私たちの目は閉ざされています。さらに、聖書のことばの奥義は隠されています(マタイ13の11)。よって「みおしえのうちにある奇しいこと」を知るためには、私たちの祈りと聖霊の導きが必要です。そして何よりも謙虚さが求められるのです。
 みことばを、自分勝手に解釈してしまうことはないでしょうか(Ⅱペテロ1の20)。それでは神様の御声に耳を傾ける謙虚さが失われ、自分がどう感じるか、自分がどう解釈するのか、神の啓示よりも自分の解釈の方が中心になってしまいます。
 この詩篇の著者は自らを「あなたのしもべ(17)」「このしもべ(23)」と呼んでいます。自分が神様のしもべであり、神様は自分の主人であることをわきまえています。しもべにとって大事なことは、謙虚な気持ちで主人のことばを聞くことです。私たちにも「私の目を開いてください」「私が目を留めるようにしてください」との祈りが必要です。祈りと聖霊の導きの中で私たちも聖書を読み、「みおしえのうちにある奇しいこと」に、みことばによって導いていただきましょう。

【2】 私は地では旅人です
 さて、この詩篇の著者はみことばをひたすら渇望していますが、それには理由がありました。彼が「地では旅人」だったからです(19)。「旅人」とは「寄留者」のことで、つまりこの地に自分の土地を持っていない人のことです。
 アブラハム、モーセ、ヨシュア、ダビデ…。イスラエルの先祖たちは皆、寄留者でした。この世の法律とは違う法律、この世の価値観とは違う価値観、違う生き方を持っていました。そして信仰によって、約束された地に他国人のようにして住み、堅い基礎の上に建てられた天の都を待ち望みました(へブル11の9~10)。この世から贖い出され、神の者とされた私たちも旅人として、寄留者としてこの世を歩むのです。
 この世とは違う法律、価値観、生き方を持っている、と言われても、実際には、この世の考え方に振り回されてしまう私たちです。自分で決めた通りに生きていける程、私たちは強くありません。その脆さを、詩篇の著者もよくわかっていました。だからこそ、「あなたの仰せを私に隠さないでください(19)」と彼は祈りました。いつも、どんな時も彼はみことばを慕い求めていたのです(20)。
 それゆえに人々からそしられたり、蔑まれたりすることもあります(22)。君主たちから敵対され、迫害されることもあります(23)。この世は自分たちと異質なものを嫌います。自分たちに同意せず、合意しない者たちを排除します。それゆえに私たちもこの世からの厳しい仕打ちを覚悟しなければなりません。
 しかし、この詩篇の著者はそんな時には「あなたのおきてに思いを潜めます(23)」と告白しました。私たちもみことばに思いを潜めましょう。みことばの中に隠される「くすしいこと」を味わいましょう。すぐに忘れる聞き手にならずに、みことばを一心に見つめる者となりたいと思います(ヤコブ1の25)。

【3】 あなたのさとしこそ私の喜び、助言者です
 そのようにして神のおきてに思いを潜め、みことばを一心に見つめる時に、何が起きるのでしょうか。喜びが与えられます。神のことばこそは「私の喜び」だからです。
 なぜ「私の喜び」なのでしょうか。みことばが「私の助言者」だからです(24)。私たちの人生に必要なのは、的確な助言や忠告です。人の助言や忠告もありがたいですが、しかし、限界があります。私たちに必要であり、私たちが求めるべきものは神のことばによる助言と忠告です。その人は、行いによって祝福される人です(ヤコブ1の25)。この世の歪んだ旅路を、曲がりくねった道を、確信と平安をもって歩んでいくことができるのです。

【4】 むすび
 私たちの神様は私たちをみことばを通して導いてくださいます。旅人である私たちに必要なのは、この神のことばです。神のことばに思いを潜めて歩んでいこうではありませんか。