あなたのみことばを心に蓄えます        詩篇119篇9~16節

2022年6月12日 飯能キリスト聖園教会     礼拝説教要約(若井和生師)

 いつの時代も若い人たちは可能性に満ちています。でも彼らは皆、発展途上であり未完成です。そしてその時代の価値観に敏感に反応します。教会はどのようにして若い人たちを育てていくことができるでしょうか。

【1】 みことばの通りに道を守る
 詩篇の著者は問いかけました。「どのようにして若い人は自分の道を清く保つことができるでしょうか。」 その答えは「あなたのみことばのとおりに道を守ること」です。「あなたのみことばを守ること」ではありません。「あなたのみことばのとおりに道を守ること」。つまりみことばが基準であり、その基準に従って人生を歩んでいく、ということです。それは神様の願っていることが規準になっている、ということです。
 この世は様々なもっともらしい教えや、魅力的な価値観に満ちています。かつて社会主義、共産主義、資本主義のような「~主義」と呼ばれる価値観がもてはやされた「近代」という時代がありました。しかし、今はポストモダン(近代以後)の時代です。この時代の特徴は「真理も価値も人それぞれ」「真理よりもフィーリング」というもの。しかし、相対的な価値観で人間は満たされることがありません。人は絶対的な何かを必ず求めます。よって今は絶対的な確信に満ちた強い主張を、人々は求めていると言われています。
 時代の移り変わりの中で、人々の意識も移り変わっていきます。そしてその影響を一番受けやすいのがいつの時代も、若い人々です。
 若い人々にはみことばが必要です。みことばに拠り頼む習慣が必要です。イスラエルの民は子どもたちに徹底してみことばを教えました。それが神様の命令だったからです。「これ(神のことば)をあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家で座っているときも、道を歩くときも、寝るときも起きるときも、これを彼らに語りなさい(申命記6の7)。」 

【2】 みことばを心に蓄える
 この詩篇の著者はあることに取り組んでいることがわかります。それは、神のみことばを心に蓄えること。それは神の前に罪ある者とならないためでした(11)。
 この人は罪の恐ろしさを知っています。よって「どうか、あなたの仰せから私が迷い出ないようにしてください(10)」「あなたのおきてを私に教えてください(12)」と必死になって祈っています。罪の誘惑の大きさとその結果の恐ろしさを知っているがゆえに、彼は必死になって祈っているのです。
 そんな罪から自らを守るための一番よい方法は、みことばを心に蓄えることでした。「蓄える」と訳されていることばは、「隠す」「秘める」という意味のことばです。ただ単にたくさんのみことばを蓄えればよいのではありません。蓄えたみことばの中にじっと留まること、思いめぐらすこと、そのみことばが自分にどう語りかけているのかを知ること、それらをすべて含む「蓄える」です。
 聖書をよく学んでいれば、それで信仰が成長するかと言えば、必ずしもそうではありません。聖書の話しを多く理解していても、その理解がその人の人生につながっていかない場合があります。学んだ通りに生かされることがないために、生き生きとした信仰になっていかないのです。
 その壁を私たちはどうやって乗り越えていったらよいでしょうか。その力もみことばの中にあります。よって私たちはみことばを聞き、そこにとどまり、思いめぐらす必要があります。そしてみことばによって生かされる体験が欠かせないのです。

【3】 みことばが生み出す喜びに満たされる
 みことばを蓄えると、どうなるのでしょうか。詩篇の著者は「私は、あなたのさとしの道をどんな宝よりも楽しんでいます(14)」「私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのみことばを忘れません(16)」と告白しています。みことばが彼に楽しみと喜びを与えていることがわかります。みことばが彼にとっての支えであり、みことばによって彼の生き方が変えられていったからです。
 みことばを蓄える時、私たちもみことばによって生かされる楽しみと喜びを経験することができます。私たちはどれだけこの楽しみと喜びを、日々の歩みの中で体験しているでしょうか。

【4】 むすび
 子どもたちは教会に来ることに、どれだけの楽しみと喜びを感じてくれているでしょうか。そして私たち大人たちは、どれだけ子どもたちに信仰者として歩む喜びを、伝えきれているでしょうか。大人たちが、みことばを喜び、みことばに生き生きと生かされている時、その姿は必ず子どもたちに伝わっていきます。
 クリスチャンになるとは禁欲的になることではありません。主のみことばによって生かされ、喜びつつ歩むことです。そのために聖書のみことばが欠かせません。どうか私たち自身がみことばを蓄え、みことばに生かされる者とされていきますように。そのような聖書に生かされる信仰が、次世代にも継承されていくように、祈りつつ励んでいきましょう。