母の胎内にいたときから、あなたは私の神       詩篇22篇6~11節

2022年5月8日 飯能キリスト聖園教会      礼拝説教要約(若井和生師)

 神に見捨てられるという経験をしたダビデ。しかし、その中から賛美の歌が生まれてきたことを前回、1~5節を通して確認しました。そのダビデが続く箇所において、再び現実の中に戻されていることがわかります。

【1】 苦しみ
 ダビデは神に向かって「しかし、私は虫けらです。人間ではありません(6)」と告白しました。ダビデの悩みとは、自分が自分であることの悩み、自分の存在に関する苦しみであることがわかります。
 どうしてダビデはこのような心境になってしまったのでしょうか。人のそしりや蔑みが原因でした。しかもダビデは人のそしりや蔑みの「的」となってしまっています。ダビデを見る人はみな、ダビデを嘲りました。口をとがらせ、頭を振りながらダビデを嘲りました(7)。ことばと態度をもってダビデの人格を否定したのです。
 このような体験に耐えられる人は、おそらくいないことでしょう。しかもこれはダビデが信仰者であることゆえの誹謗中傷でした。人々はダビデに向かって言いました。「主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから(8)」。これはダビデの神は無力である、何もしてくれない、との意味の嘲りのことばです。私たちにも試練の時、苦難の時があります。そのような時に、信仰者ではない家族にこのように言われたら、私たちも辛いのではないでしょうか。
 このダビデの経験は実はイエス様が十字架上で体験されたことでした。イエス様も十字架上で人々から散々嘲られ、馬鹿にされたのです。イエス様は十字架上で、ダビデが詩篇22篇で体験していた苦しみを思いながら、自らの苦しみを耐え忍んでおられたことがわかります。

【2】 賛美
 しかし、その中から賛美が生まれてきました。賛美は苦しみの中にあって、希望の世界を私たちに開くことを教えられます。神様はダビデにとってどのような方だったでしょうか。第一に神様はダビデを母の胎から取り出してくださった方です。これはダビデが偶然の存在ではなく、神によって造られた価値ある存在である、という意味です。
 第二に神様はダビデを母の乳房に拠り頼ませてくださいました。生まれたばかりで全くの無力であったダビデのために、母という存在を備えられ、ダビデの必要を満たして下さったということです。第三に、生まれる前からダビデは神様にゆだねられました。つまり生まれる前も、生まれたその時も、生まれた後も、神様はずっとダビデの神様だった、ということです。
 そのようなダビデの理解と確信から、次のようなダビデの信仰告白と賛美とが生まれてきました。「母の胎内にいたときから、あなたは私の神です(10)」 このような信仰の告白と賛美ができる人は幸せな人ではないでしょうか。私たちは誰もが自分が自分であることに不安を抱えています。自分の存在に関する悩みを抱えています。その傾向は現代の私たちに、より強く見られる傾向だと思います。それは私たちが、神様を基盤として私たちの人生を築いていないからです。
 ぜひ創造主なる神様を信じましょう。その方が生まれる前から私たちの神様であることを信じましょう。そしてこの神様を中心として私たちの人生を築き上げましょう。そこから私たちの深い賛美が生まれてくることを覚えたいと思います。

【3】 祈り
 そんなダビデの神様への深い信頼から、祈りが生まれてきたことがわかります。「どうか、私から遠く離れないでください。苦しみが近くにあり、助ける者がいないからです(11)」 神に見捨てられたと感じ、神を遠くに感じながら、しかしダビデはそこで絶望しませんでした。あきらめずに神様を呼び求めました。「私から離れないでください」と率直に正直に祈りました。
 どうしてこのような真っ直ぐな祈りが生まれてきたのでしょうか。それは「生まれる前から、神様は私の神である」とダビデが確信していたからです。その信仰があるからこそ、ダビデは真っ直ぐに正直に祈ることができました。神の愛を知っている人は神様に深く信頼し、さらに深く祈ることのできる人です。そのこと自体がダビデの人生の祝福であり、力でした。

【4】 むすび
 私たちが私たちの子どもたちに望むことは、このことではないでしょうか。子どもたちに祈りを知ってほしい、祈る人になってほしい。それが信仰者である親たちの願いではないでしょうか。
 祈りを知っているとは神様を知っていることであり、神様に生かされている自分自身を知っているということです。その理解が厳しい人生を歩んでいかなければならない子どもたちの人生の支え になったら、どんなに幸いなことでしょうか。 
 そのためには私たちがまずそのような信仰をもたせていただきましょう。私たちの存在の根底に、私たちを造り、私たちを愛し、導いてこられた神様がいます。その方を個人的に知り、この方に信頼し、この方に生かされる時、私たちのくちびるに賛美が生まれます。そのような賛美は、どのような状況の中にあっても、決して失われることがないのです。