わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか   詩篇22篇1~5節

2022年5月1日 飯能キリスト聖園教会      礼拝説教要約(若井和生師)

 イエス様が十字架上で語られたことばの多くは、イエス様のオリジナルではなく、旧約聖書に記されることばでした。その内の一つが詩篇22篇1節の「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」です。詩篇22篇は全体で読む時に、それは賛美であることがわかります。つまり、イエス様は十字架上で神様を賛美しておられたのです。
 絶望の叫びであるように見えるこのことばが賛美だとは! 私たちの賛美の理解を根底から問われるようなことではないでしょうか。これは本当に賛美なのでしょうか。賛美だとするならば、イエス様は十字架上の極限の苦しみの中で、なぜ賛美できたのでしょうか。 

【1】 苦しみ
 詩篇22篇はダビデによる詩篇です。ダビデはこの時、神に見捨てられる経験をしました。苦しみに圧倒され、神様が遠くに感じられます。ダビデは昼も夜も神様に助けを求めました。うめきながら神様を呼び続けました。それなのに応えはありません。その神様の沈黙が、ダビデには本当に苦しかったのです。
 私たちにもそんな時があるでしょうか。苦しみの中で祈っても祈っても何の応えもありません。神様がひたすら遠くに感じられてしまいます。今のウクライナの人々の苦しみはまさに、このような苦しみではないでしょうか。昼も夜も助けを求めているのに、誰も助けに来てくれません。神様から何の応えもありません。
 イエス様も十字架上でそのような苦しみを体験されました。この世で生きている限り、そのような苦しみの時が私たちにもあるのではないかと思います。

【2】 賛美
 ところがこのダビデの叫びが3節以降、賛美に変わります。なぜ賛美に変わったのでしょうか。神に見捨てられるという苦しみの中から、なぜ賛美が生まれてきたのでしょうか。
 第一にダビデは心の深いところでは、神様を信頼していることがわかります。ダビデは神様に向かって「わが神、わが神」と呼びかけました。ダビデにとっての神様とは「私の神様」「私がよく知っている私の個人的な神様」だったのです。
 さらにダビデは神様がおられることを決して疑っていません。神様が遠くに感じられ寂しく思いながらも、そこに神様がおられることを信じています。何よりも、このように真っ直ぐに神様に向かって声を上げることができるのは、ダビデが神様に信頼している証拠です。ダビデは絶望しているようで、実は神様に信頼しているのです。
 そしてダビデは「わたし」から「あなた」に目を向けました。自分の問題、自分の悩み、自分の苦しみに圧倒されていた中から、神様に目を向けました。神様がどのような方であるかを思い出しました。そして賛美したのです。「けれども あなたは聖なる方、御座に着いておられる方、イスラエルの賛美です(3)。」 この詩篇を十字架の上で味わっておられたイエス様の内にも、父なる神様に対する信頼があったのです。
 私たちは苦しみの時にこそ信仰が試されます。本当に神様を知っているのか、神様に信頼しているのか、この方に目を向けているのかが試されるのです。

【3】 共同体の賛美
 さらにダビデの個人的な賛美は、イスラエル全体の賛美によって支えられていたことがわかります。ダビデは神様に向かって「あなたは聖なる方、御座に着いておられる方、イスラエルの賛美です」とイスラエル全体を代表して神様を賛美しています。1~2節で極めて個人的な関係の中で神様を賛美していたダビデは、3節に至るとイスラエルの共同体の交わりの中で賛美しています。ダビデ個人の信仰は、イスラエル全体の信仰によって支えられていたのです。私たちも個人では力を失ってしまうことがあります。しかし、教会の交わりの中で支えられたり励まされたりしながら、主を賛美するのです。
 そしてダビデはダビデの先祖たちの信仰によっても支えられていました。ダビデの先祖たちは神様に信頼しました。信頼の内に神様に向かって叫ぶと、神様は彼らを救い出してくださいました(4~5)。その模範があるからダビデも今、叫んでいます。先祖たちが神様に信頼した姿に倣って、ダビデも神様に信頼したのです。
 イエス様も十字架上で、このダビデに倣って叫び声を上げられました。ダビデも、イエス様も、先祖たちの信仰者としての姿に励まされていたのです。

【4】 むすび
 私たちの信仰は教会によって支えられます。教会の交わりによって、さらに、先人たちの信仰の姿によって支えられます。神様は教会とともにおられ、教会を通してご自身を現わしてくださいます。そのような兄弟姉妹との交わりを通して、私たちの唇にも賛美の声が与えられていきます。
 私たちの真の賛美は、私たちの神様に対する信頼の中から生まれてきます。教会の交わりに支えられながら私たちは信仰を養い、賛美する者として成長していきましょう。