早く助けに来てください          詩篇22篇12~21節

2022年5月15日 飯能キリスト聖園教会      礼拝説教要約(若井和生師)

 苦しみの中で賛美し、賛美の中で苦しみを思い、苦しみと賛美の間を行ったり来たりしていたダビデ。そのダビデが「どうか私から遠く離れないでください(11)」との祈りの声を挙げた時、ダビデの心の扉が開いたのではないでしょうか。さらに正直な祈り、ダビデ自身の苦しみを率直に伝える祈りが、そこで生まれてきました。

【1】 ダビデの苦しみ
 ここに来て、その時のダビデの経験していた苦しみの中身が見えてきました。それは敵に完全に取り囲まれる苦しみです。「多くの雄牛が私を取り囲み、バシャンの猛者どもが私を囲みました(12)。」 ヨルダン川東岸のバシャンの地は牛が放牧されていることで知られている地域でした。ダビデを取り囲んでいた敵はバシャンの雄牛のように獰猛で横暴であったことがわかります。
 その雄牛のような敵が13節に入ると「かみ裂く、吼えたける獅子」に譬えられています。飢えた獅子の餌食にされる獲物のようにダビデは無力さの内におびえていることがわかります。
 その敵が16節以降では悪者の象徴であった「犬ども」に譬えられています。彼らはダビデから衣服をはぎ取り、裸になってしまったダビデを目を凝らしながら見て楽しんでいます。ダビデを取り囲んでいる敵たちは雄牛や獅子や犬どものように、獰猛で横暴で残酷な敵たちだったのです。
 17~18節はイエス様の十字架の預言となったことばです。十字架にはりつけになったイエス様を通りすがりの人々は目を凝らして見て嘲り、兵士たちはイエス様の衣服をくじ引きして分け合いました(マタイ27の35)。これはダビデの経験ですが、同時にイエス様の体験でもあったのです。

【2】 弱り果てるダビデ
 そのように恐ろしい敵に囲まれてダビデはすっかり弱り果ててしまいました。「水のように私は注ぎ出され、骨はみな外れました。心はろうのように私のうちで溶けました。私の力は土器のかけらのように乾ききり、舌は上あごに貼り付いています。死のちりの上に、あなたは私を置かれます(14~15)。」 ダビデは弱り果て、疲れ果て、ダビデの心にも身体にも不調を来しています。その苦しみはダビデに死を意識させるほどでした。
 このようにダビデは弱音を吐き出しています。でも、弱音を吐き出せているところに救いがあるのではないかと思います。
 今、多くの悩み・苦しみに囲まれて自ら死を選んでしまう人が多数いる、と言われています。そのような方々の中で、もし本音を誰かに打ち明けることができたなら、正直に弱音を吐くことのできる人がいたならば、もしかすると救われたという人が、たくさんおられるのではないでしょうか。むしろ、そのような人が誰もいない中、一人で問題を抱え込み、悩み苦しみ、誰にも相談できないままに行き詰ってしまう例が多くあるのではないかと思います。
 ダビデはイスラエルの王でした。誰からも尊敬される人物でしたが、イスラエルの王ならではの孤独をダビデは抱えていたのではないかと想像します。しかしそんなダビデにも安心して弱音を吐ける方がいました。何でも正直に告白できる方をダビデは知っていました。それはダビデの神様です。それがダビデにとっての救いだったのです。

【3】 ダビデの正直な祈り
 この弱り果てたダビデの口から祈りが生まれてきました。「主よ、あなたは離れないでください」「早く助けに来てください」「救い出してください」「救ってください」。切実で真っ直ぐで正直な求めが、ダビデの口より次々と発せられていることがわかります。このような祈りが生まれてくること自体が素晴らしいのではないでしょうか。悩み・苦しみの中にあっても、このような求めがなかなか生まれてこないことも、私たちには多いように感じるからです。
 悩み・苦しみの中ですっかり弱り果て、疲れ果てて、そこであきらめることもできます。人生を呪ったり、人を責めたり、自暴自棄になることもできます。黙って耐え忍ぶこともあるでしょう。しかし、その時に神様を見上げて、真っ直ぐに声を挙げることができたならば、私たちは救われるのではないでしょうか。そのように声を挙げることのできる方を知っていることが、私たちにとっての救いではないでしょうか。

【4】 むすび
 弱り果て、疲れ果てたダビデはその中から神様を仰ぎました。その方はダビデにとってダビデの主であり、ダビデの力でした。その方をダビデは知っていて、その方に信頼しました。そして迷わず、声を挙げたのです。「離れないでください」「早く助けに来てください」「救い出してください」と正直に神様に訴えたのです。
 私たちにも弱ったり疲れたりすることがあります。多くの問題や悩み・苦しみに囲まれて行き詰ってしまうこともあります。その時にはダビデのように神様に目を上げたいと思います。そして神様に心を注ぎ出し、神様を呼び求める者となろうではありませんか。