この小さい者たちの一人に        マタイの福音書10章40~42節

2022年4月24日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 マタイの福音書10章で、弟子としての心構えについて教えてこられたイエス様。弟子たちに最後に何を教えられたでしょうか。

【1】 弟子たちを受け入れる人
 今日の箇所は「あなたがたを受け入れる人は…」ということばから始まっています。弟子たちのことを受け入れてくれる人がいる、ということがわかります。
 イエス様は弟子たちを「狼の中に羊を送り出すようにして」遣わされました(16)。弟子たちは遣わされて行く先で迫害されること必至です。イエスの弟子として歩む道は厳しい道であることがわかります。しかし、その中にあって弟子たちのことを「受け入れる人」もいたのです。
 振り返ればイエス様は弟子たちを遣わす際に、「胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません(9)」と指示されました。無一文の状態で、特別な準備をしないままに出ていきなさい、と指示されました。「働く者が食べ物を得るのは当然だから(10)」です。つまり、弟子たちは神ご自身が彼らを養ってくださることを体験で学ぶ必要がありました。弟子たちを受け入れる人々との出会いによって、神様が弟子たちを養ってくださったのです。
 私たちも信仰をもって主に従って行く時に、神様は様々な人々との出会いを通して私たちを助け、養ってくださいます。そのような出会いを主が備えてくださるのです。

【2】 弟子たちを受け入れる人に与えられる報い
 イエス様は「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです(40)」と語られました。弟子たちを受け入れる人は、結果的にイエス様を受け入れ、イエス様を受け入れる人は、イエス様を遣わされた神様を受け入れることになります。弟子たちとイエス様と神様はつながっており、人々が弟子たちを受け入れることによって、イエス様も神様も受け入れる結果につながっていくことがわかります。
 そしてその時、人々には神様の祝福が与えられていきます。その祝福が41節では「報い」ということばで表されています。預言者を預言者だからということで受け入れる人、あるいは、義人を義人だからということで受け入れる人にはその分の報いが与えられます。同様に、弟子たちを受け入れた人々にも神様からの報いが与えられるのです。
 かつて預言者エリヤはツァレファテのやもめと出会い、パンを求めました。当時、その地域には深刻な飢餓が発生しており、貧しいやもめの家には、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油しか残されていませんでした。やもめは自分と息子のために調理し、それを食べて死のうと思っていたのです。
 しかしそれでも彼女は信仰をもって最後の粉と油を使ってパン菓子をつくり、エリヤに与えました。すると何が起こったでしょうか。そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならなかったのです(Ⅰ列王17の14)。預言者エリヤをもてなしたために、彼女は神様からの報いを得たのです。
 神様は私たちを祝福する者を、祝福してくださいます。そのようにして私たちは祝福を人々に届ける者とされていくのです。

【3】 一杯の水でも
 弟子たちを受け入れる実例としてイエス様が語られたのは、「この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる」ことでした。この小さい者の中の一人でいいのです。弟子たち全員をもてなす必要はありません。さらに一杯の冷たい水を飲ませることでいいのです。大それたことをする必要もありません。
 「そんな小さなことでいいのですか」と言いたくなるようなささやかな行為です。しかし、そんな小さな親切であっても、神様の報いから漏れることはありません。神様は、私たちのどんな小さなな愛の行為も、ちゃんと見ておられ、必ず報いてくださる方なのです。

【4】 むすび
 今日の聖書の箇所を通して、神様は完全に私たちの味方である、ということを教えられます。神様は、私たちが出会う人々の私たちに対する態度をいつも見ています。そして私たちに親切にしてくれる人には、祝福を返してくださるのです。
 学校に子どもを送り出す親は、子どもが心配です。友だちができるだろうか。仲間外れにされないだろうか。よい先生にめぐり合うだろうか…。そこで子どもが友達から親切にされたり、先生によくしてもらえたら、とても嬉しいです。自分が親切にされたわけではないのに、自分のことのように喜びます。それは親が完全に子どもの味方だからです
 神様もイエス様も同じです。イエス様をこの地上に遣わされた父なる神様は、イエス様を受け入れた人々を祝福してくださいました。私たちはイエス様から弟子として遣わされます。私たちを受け入れる人々を、イエス様も同様に祝福してくださるのです。
 イエス様も神様も完全に私たちの側に立つ私たちの味方です。何と幸いなことでしょうか。主とともに弟子として歩み、人々に祝福を届ける者となりましょう。