なぜ泣いているのですか       ヨハネの福音書20章1~18節

2022年4月17日 飯能キリスト聖園教会 イースター礼拝説教要約(若井和生師)

 イエス様は復活された後、最初に誰にご自身の姿を現されたでしょうか。マグダラのマリアに対してでした。

【1】 私たちの愛と信仰に応えてくださるイエス
 日曜日の朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓にやって来ました。イエス様の身体に香油を塗るためです。ところが墓から石が取りのけられていて、イエス様は中におられませんでした。驚いたマリアは走って行き、ペテロとヨハネにその事実を伝えました。二人は墓に駆け付けますが、その後を追ってマリアもまた墓に戻ったことがわかります。
 ペテロとヨハネは墓の中に亜麻布が置いてあるのを確認した後、再び自分たちのところへ帰ってしまいました。しかしマリアは墓の外にたたずんで泣きました。マリアが深くイエス様を愛していたことが伝わってきます。
 マリアはかつてイエス様から7つの悪霊を追い出してもらったことがありました(ルカ8の2)。その時の恩を彼女は決して忘れず、その時に受けた愛に何とかして応えようと思いました。マリアは十字架のそばにもいましたし、イエス様の埋葬の様子も見ていました。そして安息日が開けた瞬間に墓に駆け付け、イエス様の身体に香油を塗ろうとしました。イエス様に対する愛と献身をもっともはっきりと表したのはマリアだったのです。
 そのマリアの前にイエス様はご自身を最初に表してくださいました。マリアが復活されたイエスの最初の証人とされたのです。主は、ご自身を愛する者のその愛に豊かに応えて、ご自身を現わしてくださいます。私たちもマリアのように主を愛する者となろうではありませんか。

【2】 私たちの悲しみを喜びに変えてくださるイエス
 白い衣を着た二人の御使いがマリアに「なぜ泣いているのですか」と問いかけました。その後、イエス様も同じ質問をしています。御使いもイエス様もマリアが泣いている理由をよくご存知でした。それなのに問いかけたのは、マリアにもっと大切なことに気づいてほしかったからです。
 イエス様に至っては「だれを捜しているのですか」とマリアに問いかけました。マリアはイエス様を捜しています。そのマリアに対してイエス様自ら「だれを捜しているのですか」と問いかけるとは! ご自分のことを園の管理者であると勘違いしているマリアに向かって、イエス様は言われました。「マリア」。イエス様は優しくマリアを呼びかけたのです。その呼びかけのことばにイエス様のマリアに対する豊かな愛が込められていました。
 マリアは「先生」と言って答えました。捜している方が目の前にいるのです。しかも自分の名前を呼んでくれるのです。イエス様は生きておられた! マリアのそれまでの悲しみの涙は、喜びの涙に変えられました。
 この世で一番大きな悲しみは、愛する人が失われる悲しみです。愛する者を失った時の悲しみは簡単には癒えることがありません。それは大きな喪失です。しかしイエス・キリストを信じる者には復活の希望があります。イエス様は私たちの悲しみを喜びに変えてくださるのです。

【3】 私たちを復活の証人としてくださるイエス
 喜びのあまりイエス様にすがりつこうとしているマリアに向かって、イエス様は「わたしにすがりついてはいけません」と語られました。その理由は「わたしはまだ父のもとに上っていない」からでした。イエス様から離れられないでいるマリアの気持ちをよく受け止めながら、同時に、マリアが次のステップに踏み出せるようイエス様が励ましておられることがわかります。
 マリアはイエス様が単なる人間ではないこと、神ご自身であることを自覚する必要がありました。そしていつまでも目に見える人間的なつながりに頼るのではなく、目に見えない神様との生きた関係に生かされることを望まれました。
 イエス様はマリアにつとめを与えられました。それはイエス様が復活された事実を弟子たちに伝えるというつとめです。マリアが復活の証人としてのつとめを立派に果たすために、イエス様はマリアを弟子たちのところに遣わされました。マリアはイエス様のことばに押し出されるようにして弟子たちのところに向かい、彼らの前で「私は主を見ました」と告白したのです。

【4】 むすび
 私たちはイエス・キリストを信じて永遠のいのちを与えられました。そして復活の主と日々ともに歩み、復活の主を毎週礼拝しています。私たちも復活の主の証人です。同じつとめが私たちにも与えられていることを覚えたいと思います。
 私たちもイエス様の愛に応えてイエス様に心から仕えていきましょう。その時にイエス様は豊かにご自身を私たちに現わしてくださいます。私たちの悲しみを喜びに変えてくださいます。この復活の主を私たちも人々に伝えようではありませんか。
 イエス・キリストが死に勝利されて復活されたこと、その主が私たちとともにおられること、私たちを永遠に導いてくださること、これが私たちの希望です。この復活の主を、私たちは続けて賛美し続けたいと思います。