蛇のように賢く、鳩のように素直で      マタイの福音書10章9~15節

2022年3月6日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 私たちは礼拝の度に主の御前に招かれ、主の御前で強められ、そして主の権威の下で、それぞれの場所に遣わされていきます。集められて祝福を受け、出発していきますが、遣わされていく場所は必ずしも快適な場所ではないと思います。

【1】 狼の中の羊
 イエス様は弟子たちを遣わされる際に「いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします(16)」と語られました。狼の中の羊! 羊は敵と闘うための武器を何ももっていません。身を守る術を何ももっていないのです。よって狼が攻めてきたら、何の抵抗もできないままに餌食にされてしまいます。私たちの周りには何と大きな危険が満ちていることでしょうか。
 よってイエス様はその対策として「ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」と命じられました。聖書において蛇はサタンの象徴です。そのサタンの狡猾さについては創世記3章によく表されています。「さて蛇は、神である主から造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった(創世記3の1)。」 そして蛇はたくみに誘惑して、まずエバに、さらにエバを通してアダムにも罪をおかさせてしまいました。つまりイエス様はここで「賢さにおいてはサタンのようでありなさい」と教えておられるのです。
 同時に素直さにおいては鳩のようでありなさい、とも命じられました。これは純真で混じりけのない心の状態を表しています。知性においてはよく考えて物事に対処する賢さが求められますが、心においては混じりけのない素直さが求められています。
 「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。(Ⅰペテロ5の8~9)」 私たちの周りには危険が満ちています。敵からの攻撃や誘惑にいつも晒されています。そんな中にあって、私たちに求められるのは敵に対する賢さと、主に対する素直さです。そのようにして目を覚まして歩む者でありたいと思います。

【2】 迫害
 続いてイエス様は17節にて「人々に用心しなさい」と語られました。彼らが弟子たちを地方法院に引き渡し、会堂でむち打たれることになるからです。これは弟子たちに対して迫害が起こる事実を表しています。
 さらに18節に入ると彼らは総督たちや王たちの前に連れて行かれることがわかります。17節では同胞のユダヤ人たちから受ける迫害、さらに18節では異邦人世界において受ける迫害が想定されています。弟子たちは内に外にいろんな時、いろんな人々から迫害を受けることがわかります。
 なぜ人々は弟子たちを迫害するのでしょうか。それは「わたしのため」です。つまり弟子たちはイエス様を信じているゆえに迫害を受けるのです。
 初代教会のクリスチャンたちはユダヤ人たちからも、ローマ人たちからも迫害されました。いろんな理由で彼らは迫害されましたが、一番の原因は、彼らがローマ帝国の皇帝よりも、イエス・キリストを自らの主として王として、従っていたからです。
 「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。(Ⅱテモテ3の12)」 私たちもキリストのゆえに必ず迫害されるのです。

【3】 心配する必要なし
 しかし、迫害された結果として、彼らは証しすることになりました。権力者たちの前に立たされますが、それはイエス・キリストを彼らと異邦人に証しするための絶好の機会だったのです。迫害は、神の目的が果たされるための手段であることがわかります。
 その際に何をどう話すかと心配する必要は一切ありませんでした。話すことはその時に与えられるからです。そこで話すのは当人ではなく、彼らの内におられる父の御霊だからです。人間の目には危機的状況に見えたとしても、すべては神のご計画の中にあります。そしてすべて主の御手が支えてくださいます。しかも、彼らの内に住む御霊がその時々に、彼らに語るべきことばを教え、彼らを証し人としてくださいました。
 
【4】 むすび
 私たちはキリスト者として遣わされて行く時に、いろんなレベルで迫害を経験します。批判されたり、誤解されたり、からかわれたり、無視されたり、拒否されたりします。厳しい時代が来ると捕らえられて、尋問されたり、拷問されたり、不当な裁判にかけられたり、殉教することもあります。私たちはまさにイエス様と同じ体験が与えられているのです。
 しかし、それは神様から与えられた証しするための機会です。心配する必要はありません。聖霊なる神様が私たちの中におられ、内側から私たちを支え、証しする知恵と力とを授けて下さるからです。歴史を通してキリスト者たちはいつも迫害されてきました。しかし、その姿を通して福音は世界中に証しされていったのです。
 私たちも機会を用いて、主によって証しさせていただく者となりましょう。