恐れてはいけません       マタイの福音書10章26~31節

2022年3月27日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 聖書の中で何度も繰り返し語られるのは「恐れるな!」というメッセージです。その事実は人間がいかに恐れやすい存在であるかを示しています。本日の聖書の箇所においてもイエス様は、弟子たちに向かって「恐れてはいけません」と三度語っています。おそらく弟子たちはイエス様のここまでの話しを聞いて、恐れ始めていたのだと思います。その事実を受けとめられた上で、イエス様は繰り返し「恐れてはいけません」と語られました。
 どうして私たちは恐れてはいけないのでしょうか。三つの理由をともに覚え合いたいと思います。

【1】 神の前にすべてが明らかにされるから
 どうして私たちは迫害された時、彼らを恐れる必要はないのでしょうか。第一に、「おおわれているもの」は「現わされ」、「隠されているもの」は必ず「知られる」ことになるからです(26)。つまり、神の前にすべてが明らかにされるからです。
 イエス様がここで言われる「おおわれているもの」「隠されているもの」とは何でしょうか。続きを読み進めていく時、それはイエス様のことば、みことばであることがわかります。イエス様は「暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。あなたがたの耳もとで聞いたことを、屋上で言い広めなさい(27)」と語られました。
 イエス様は暗闇の中で私たち一人ひとりに語りかけてくださる方、また耳もとで私たちにささやいて下さる方です。そのようにして大切なメッセージを私たちに託してくださいました。そのメッセージはすべての人に聴かせなければならないメッセージです。神のことばである福音の真理は、最後には必ず明らかになるのです。
 人間のことばも、わざも、人間自身に関するものはいずれ、すたれます。「人はみな草のよう。その栄えはみな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは永遠に立つ(Ⅰペテロ1の24~25)。」 聖書のことばは神のことば、それは永遠に立ち続けます。そのみことばが私たちに委ねられていることのゆえに、私たちは恐れる必要がないのです。

【2】 人間には、人のたましいを殺すことができないから
 二番目に、人間には人のたましいを殺すことはできないからです。人はからだを殺しても、たましいを殺すことはできません(28)。それゆえに私たちは人間を恐れる必要がないのです。それ以上に大事なのは「たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れる」ということです。
 ここに非常に厳粛な事実が示されています。神様は、私たちのたましいもからだもともにゲヘナで滅ぼすことのできるさばき主であるという事実です。神様はアダムとエバを楽園から追放し、ノアの時代の腐敗した世界をさばき、ソドムとゴモラを滅ぼし、偶像礼拝に耽りモーセに反逆したイスラエルの民を滅ぼされました。このさばき主なる神の前に私たち一人ひとりが立たされ、わたしたちのしたすべてのことに、「申し開き」をしなければならない時が来ます(ローマ14の12)。その事実を私たちは生かされている間中、忘れるべきではありません。
 どのようにして私たちはこの方を恐れることができるでしょうか。それはさばき主なる神に、救い主になってもらうことです。そしてこの方に従って歩むことです。さばき主なる神が私たちのためにイエス・キリストを送ってくださり、救いの道を開いてくださいました。このイエス様を私たちは救い主として信じ受け入れ、この方に従っていこうではありませんか。

【3】 神にとって私たち一人ひとりは大切な存在だから
 三番目に、神にとって私たち一人ひとりは大切な存在だからです。一羽では売物にもならない雀一羽さえも、神様の御守りの中にあります。私たちの髪の毛一本一本に至るまで、神の目は留められています(29~30)。そんな雀よりも私たちは価値があります。私たち一人ひとりが神様にとって大切な存在です。しかも、すべてのことが神様の御手の中に治められています。それゆえに、私たちは恐れる必要がないのです。

【4】 結び
 私たちが人を恐れてしまう一番の原因、それは本当に恐れるべき方を私たちはまだ十分に知らないからです。私たちを造られた神様を知らないことが私たちの人生にとって、何と残念なことでしょうか。逆に、この方を知っていることが私たちの人生にとっては何と大きな幸いでしょうか。
 「神に信頼し、私は何も恐れません。人が私に何をなしうるでしょう。(詩篇56篇11節)」
 私たちは救い主イエス・キリストを信じることによって、神を知り、神との親しい交わりの中で生きる者とされます。神を真に恐れる者となります。救い主イエス・キリストを自らの救い主として信じ受け入れましょう。そして、この方のみこころに従って生きていきましょう。そこに恐れはありません。迫害の中にあっても試練の中に置かれても、そこに賛美があります。主が私たちとともにおられるからです。