弟子は師のように、しもべは主人のように     マタイの福音書10章24~25節

2022年3月20日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

弟子は師以上の者ではなく、しもべも主人以上の者ではありません。弟子は師のように、しもべは主人のようになれば十分です。家の主人がベルゼブルと呼ばれるくらいなら、ましてその家の者たちは、どれほどひどい呼び方をされるでしょうか。

【1】 弟子と師
 今日の箇所を通して私たちは、私たち信仰者とイエス様との関係について教えられます。まず信仰者とイエス様の関係は「弟子と師」の関係です。
 弟子とは、「学ぶ者たち」という意味です。何を学ぶでしょうか。イエス・キリストの生き方について学びます。よって、私たちの目標はイエス様です。イエス様のような人になること、イエス様のような生き方をすることです。
 私たちはキリストに似ていて、キリストを表す存在です。人々はどのようにしてイエス・キリストを知るのでしょうか。私たちを通してです。私たちの姿、私たちの生き方を通してキリストを知ります。
 それを聞いた途端、私たちは自らの不十分さを意識させられるでしょう。当然です。ですから私たちには学びが必要です。イエス様の教えとイエス様の生き方を学び、さらに、みことばに生かされる経験が必要です。
 そのためには私たちは「教えられやすい人」になりましょう。「教えられやすい人」とは、みことばを謙遜な心で聞く人のことです。種が固い土地や、岩地や、いばらの生い茂る地に落ちても育たず、耕された良い地において豊かに成長するように(マタイ13章)、私たちも耕されたよい心でみことばを聞く者となりましょう。

【2】 しもべと主人
 信仰者とイエス様の関係は二番目に、しもべと主人の関係です。しもべとは「奴隷」という意味です。しもべの目的は主人に喜んでもらうことです。自分を喜ばせること以上に、主人に喜んでもらえるかが大切です。
 5タラントもらったしもべと2タラントもらったしもべは、主人が出かけている間に、それぞれ倍に増やしました。彼らは主人を喜ばせることに熱心でした。主人が帰って来た時に二人を見て、とても喜びました。そしてそれぞれに対して、「よくやった。よい忠実なしもべだ」と言って、ほめてくださいました。
 1タラントもらったしもべは主人に怒られるのがこわくて、その1タラントを土の中に隠してしまいました。そのために主人が帰って来た時に、その1タラントを取り上げられてしまいました。彼は自分が主人に怒られないことを考えるのみで、主人を喜ばせようとは少しも思わなかったのです。(マタイ25章)
 私たちの奉仕や生き方は、主イエス様を喜ばせる生き方になっているでしょうか。いつの間にか自分を喜ばせることの方が中心になっていないでしょうか。

【3】 なぜ恐れてはいけないのか
 私たちはこの箇所を文脈の流れの中で理解する必要があります。この箇所に至るまでイエス様が弟子たちに教えられてきたことは「人々があなたがたを迫害する」という事実でした。しかし、この箇所は26節の「ですから彼らを恐れてはいけない」ということばにつながっていきます。つまり、この箇所には迫害の中にあっても、信仰者たちが彼らを恐れる必要がない、その理由について記されていることがわかります。
 イエス様とはどのような人生を歩まれた方だったでしょうか。イエス様の人生は苦しみの連続でした。生まれた時から苦しみがあり、人生のどの段階にも苦しみが続き、そして最後には人々から嫌われ、十字架につけられ、殺されてしまいました。私たちはイエス様以上の苦しみを味わうことはありません。まさに「弟子は師以上の者ではなく、しもべは主人以上の者ではない」のです。
 苦しみはあります。家の主人がベルゼブルと呼ばれることがあります。つまり、イエス様が「悪魔の頭」にように人々から評されてしまうことがあります。もしイエス様がそのように言われてしまうとしたら、その家の者たち(弟子たち)はなおさら、そのように見なされてしまうのではないでしょうか。よって信仰者は必ず苦しみます。
 それでも私たちは恐れる必要がありません。経験する苦しみにおいて、私たちはイエス様を超えることがないからです。つまりイエス様はすべての苦しみをわかってくださり、すべての苦しみの時に信仰者たちとともにいてくださるのです。

【4】 むすび
 「イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。」へブル人への手紙2章18節

 弟子は師のように、しもべは主人のように苦しみにあいます。しかしそれは、私たちがイエス様と出会い、イエス様を深く知る時です。そしてイエス様の恵みによって生かされる時です。迫害や試練に直面するからこそ、そんな時に私たちはイエス様との関係を確認することが大事です。与えられているイエス様との関係が私たちにとっての励ましであり、慰めとなるのです。
 苦しみの中で私たちは恐れることなく、私たちの師でもあり主人でもあるイエス・キリストとともに歩んでいきましょう。