平安が来るように            マタイの福音書10章9~15節

2022年2月27日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 2月も終わりとなり、神学校では卒業生を送り出す時が近づいてきました。それぞれのところに遣わされていく卒業生たちの今後の活躍を期待しつつ、しかし、皆、苦労するだろうと思います。いろんな問題と直面したり失敗したりして、無力感にとらわれたり、自信を失ってしまうこともあるのではないかと思います。
 しかし、そんな時は、神様がともにいてくださる恵みをはっきりと知らされる時だと思います。そんな祝福がいつもあるように、祈りつつ送り出したいと思っています。

【1】 何ももたずに
 イエス様は弟子たちを遣わす際に「胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい(9~10)」と命じられました。旅に出かける際に、準備を全くしないで出かける人はいません。仮に手ぶらであったとしても、せめてお財布の中にはお金を入れていきたいと思うのではないでしょうか。ところがイエス様は弟子たちに「無一文で行きなさい!」と命じられるのです。弟子たちは、とても不安になったのではないでしょうか。
 しかしそれが、主がともにいてくださることを学ぶ訓練でした。何もなくても主が守ってくださり、導いてくださり、支えてくださることを弟子たちは学ぶ必要があったのです。つまり準備をしないということが、彼らが主とともに遣わされるために必要な準備でした。
 弟子たちにとって特に不安だったと思われたのは、おそらく食べて行けるのか、ということだったでしょう。しかしイエス様は「働く者が食べ物を得るのは当然だからです」と語られました。これは、主の働き人には必ず食べ物が与えられる、との約束です。その約束通りに、弟子たちは遣わされたところでちゃんと必要が満たされたことがわかります(ルカ22の35)。
 私たちも遣わされたところで自分の無力さを感じてしまうことがあるかもしれません。自分に何ができるのか、と悩んでしまうことがあるかもしれません。しかし、そんな時に主はともにいて助け、支えてくださいます。変な自信はかえってない方がよいでしょう。そこで主とはっきりと出会えるのですから、何と幸いなことでしょうか。

【2】 ふさわし人
 弟子たちは遣わされた町や村で、「だれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい(11)」と命じられました。主が「ふさわしい人」と呼ばれる人との出会いを与えてくださることがわかります。その人との出会いを大切にし、その人との関わりの中でじっくり腰を据えて伝道しなさい、と命じられています。
 パウロはそのような方法で伝道しました。ピリピの町を訪ねた時には川岸で紫布の商人でリディアという女性との出会いが与えられました。このリディアが神を信じる者とされ、パウロとシラスはこのリディアに懇願されるかたちで彼女の家に泊り、そこをピリピ宣教の拠点としました。そのようにしてヨーロッパにおける宣教の扉が開いたのです。
 神様は私たちにも、「ふさわしい人」との出会いを与えて下さるのではないでしょうか。大事なのは、その機会を逃さないこと、そして、その出会いを大切にすることです。そのような人々との丁寧な関わりを通して、神様のみわざは前進していくことを覚えたいと思います。

【3】 平安が来るように
 弟子たちがその家でするべきことは「平安を祈るあいさつ」をすることでした。ユダヤ人たちは互いに「シャローム!」と呼びかけて、「平安がありますように!」と互いに挨拶し合う習慣をもっています。あいさつの度に、その人の上の平安を祈ることができるなんて、何と幸いなことでしょうか。しかも、弟子たちはこの世にはないイエス様が与えてくださる平安を祈ることができます。(ヨハネ14の27)。それは、神様がともにいてくださる時に与えられる全き平安です。
 さらに、その家がふさわしくなくても、平安は弟子たちのところに返ってきます。私たちが福音のために遣わされて行く時、そこで出会うのは、必ずしも歓迎してくれる人ばかりではありません。拒絶する人、反発する人、迫害する人…弟子たちにとっては好ましくない反応にもいろいろと出会うことでしょう。しかし、そんな人々の反応に関係なく、彼らはその人の上の、その家の上の平安を祈ることができたのです。

【4】 結び
 私たちに委ねられた働きも、遣わされた世界の片隅で、祈りを積み上げていく働きではないでしょうか。時々、「祈りしかできない」などと感じてしまうことが私たちにはあります。しかし、祈りができるということは、私たちにとって最も基本的で、最も大事で、最も大きな特権です。私たちには限界がありますが、神にとって不可能なことはないからです。その主にお委ねできるとは、私たちにとって何と幸いなことでしょう。
 「平安が来るように」と、私たちも祈り続けようではありませんか。