天の御国が近づいた         マタイの福音書10章5~8節

2022年2月20日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 12弟子を選ばれて、彼らを遣わされたイエス様。その際にイエス様はどんな具体的な指示を彼らに与えられたでしょうか。弟子たちは遣わされた先で、どのようなつとめを果すべきだったでしょうか。

【1】 イスラエルの失われた羊たちのところに
 イエス様は12弟子を遣わされる際にまず、「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい」と命じられました。
 とても興味深い命令だと思います。当時のユダヤ人たちは、異邦人たちやサマリア人たちを嫌っていました。宗教的に汚れた人々であると認識し、彼らと付き合うことはほとんどなかったのです。ですから、この時のイエス様の命令は、弟子たちにとっては当時の常識として感じられたと思います。イエス様も、異邦人やサマリヤ人を嫌っていたのでしょうか? 
 そうではありません。イエス様は異邦人だった百人隊長の信仰や、ツロ・フェニキアの女の信仰を高く評価されました。サマリヤ人の女性にも親しく関わられました。イエス様は、ユダヤ人と異邦人を区別される方ではありません。いずれパウロが登場し、異邦人伝道が本格的に展開される時がやって来ます。しかし、今はその時ではありません。ユダヤの民に福音を伝えるべき時です。神様のご計画には順番があることをイエス様はここで示されたのです。
 ただし、ここで私たちが注目したいのは、この時のイエス様にとってイスラエルの民は「失われた羊たち」に見えていたという事実です。「失われた羊たち」とは「迷子になった羊たち」という意味です。本来、羊は羊飼いのそばにいなければならないのに、羊飼いから離れてしまいました。本来選びの民だったイスラエルの民が今、さまよい、苦しんでいます。そんな彼らに対する痛みをイエス様は覚えておられたことがわかります。
 私たちのまわりにも「失われた羊たち」がたくさんおられるのではないでしょうか。飼い主である主からはぐれて、さまよい苦しんでいる羊たちがいるのではないでしょうか。私たちもそのような人々のそばに、遣わされて行く者でありたいと思います。

【2】 御国の到来の宣言
 それでは弟子たちは遣わされたところで何をするべきだったのでしょうか。イエス様は彼らに「行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい」と命じられました。遣わされた先で彼らが果たすべきつとめとは、「御国の到来の宣言」だったことがわかります。
 御国はイエス様の到来によってやって来ました。しかも、それは空想的・観念的なファンタジーではなく、実際に存在するものとして、目に見えるかたちでやって来ました。そこでは病人が癒され、死人が生き返り、ツァラートに冒された者がきよめられ、悪霊どもが追い出されます。そのような神の支配が現実のものとして到来したのです。その到来を告げるのが弟子たちの役目でした。そして、それが私たちの役目でもあります。
 疫病が流行り、世界中で地震や飢餓が起こり、戦争のうわさを聞き、偽預言者が横行する今の世の中です。まさにイエス様がマタイの福音書24章で預言された「終わりの日」のような様相を、今の時代は見せています。主の再び戻りたもう再臨の日が近づいています。その日はさばきがなされる時です。私たちはいつも目を覚ましていなければなりません。
 同時にそれは御国の完成の日であることを私たちは覚えたいと思います。御国はすでに来ました。そして今の世の中にあって確実に成長しています。さらにやがて完成します。その日は近いです。私たちも遣わされた場所で、御国の到来を宣べ伝えていきましょう。

【3】 ただで与える
 それでは、私たちはどうすれば御国を伝えることができるのでしょうか。御国の生き方を実践することで、御国は伝えられます。御国の生き方とは「ただで与える(8)」生き方です。今まで受けることばかり求めてきた私たちが、与える者と変えられました。どうしてでしょうか。それは「ただで受けたから」です。神様からの有り余る程の恵みをただで受けたからこそ、私たちはただで与えます。ただで受けた者は、ただで与える者に変えられるのです。
 コーウィン先生、カリコ先生、マックフェル先生、ブルック先生、ローウェン先生、トリーベル先生…。聖園教会は実に多くの宣教師の先生方によって助けられてきました。これらの先生がたはなぜ母国での快適な生活を捨てて、慣れない日本までやって来て、難しい日本語を覚え、慣れない日本での生活に合わせながら、私たちに仕えて下さったのでしょうか。それは「有り余る恵み」を神様から受けたからです。ただで受けたので、ただで与えるために、日本に来られました。そして、私たちの下に御国を届けてくださったのです。
 私たちは今、御国に生かされています。その御国を宣べ伝えるつとめが私たちにも与えられているのではないでしょうか。ただで受けた私たちが、ただで与えながら、御国の到来を高らかに宣べ伝えていく者でありたいと思います。