イエスの12人の弟子たち       マタイの福音書10章1~4節

2022年2月13日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 12弟子の選出
 8~9章とイエス様のみわざについて学んできましたが、10章では弟子の選出と派遣について教えられています。イエス様は多くの町や村を巡り、多くの人々と出会い、多くのみわざをなされました。その過程で深刻な人手不足を実感されました。まさに「収穫は多いが、働き手が少ない」状態だったのです。
イエス様の働きを担う宣教の担い手が必要でした。そこでイエス様は12弟子を選ばれたのです。12弟子はイスラエル12部族を象徴的に表しています。つまりイエス様はこの12人を元にして、新しいイスラエルを築こうとされました。神様の救いのご計画は、新しい段階に入ったことがわかります。

【2】 12弟子
 選ばれた12人の弟子たちの大半はガリラヤ出身の田舎者たちで、且つ個性豊かな顔ぶれでした。「弟子」とは「学ぶ者たち」という意味で、イエス様の弟子とはイエス様から学ぶ人たちでした。イエス様が語られる教えを彼らは直接聞き、イエス様によってなされるみわざを直接見、イエス様の姿から、その生き様から彼らは学んでいったのです。
 私たちもイエス様から学ぶ者たちです。みことばを学び、みことばに生きる生き方を学びます。学びを軽んじる人は弟子になることはできません。弟子として用いられることもありません。私たちも聖書を通して、みことばとみことばの実践を熱心に学び続けたいと思います。
 12弟子として学ぶべき最大のものは「互いに愛し合う」ということでした。イエス様は弟子たちに「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハネ13の34)」と教えられたからです。12人の弟子たちは集団としては極めてまとまりの悪い集りでした。ローマ帝国に協力的な取税人マタイと、熱狂的ユダヤ民族主義者で反ローマの熱心党員シモンが一緒にいました。政治信条が全く逆で、水と油のように決して交じり合わない両者が12人の中に含まれていたのです。
 そして彼らは互いにライバル意識を燃やし、「誰が一番偉いか」などと議論し合っている間柄でした。イエス様がいることで何とか成り立っていましたが、イエス様がおられなかったならばすぐにでも崩壊してしまうようなもろい集りでした。愛し合うことが極めて難しい集団だったのです。しかしイエス様はそのような顔ぶれを敢えて選びました。彼らが自分の内に愛がないこと、イエス様の愛によって愛し合うことを学び合うためです。
教会は「愛の学校」と呼ばれます。私たちも教会にて愛に乏しい自分を知らされ、イエス様の愛によって互いに愛し合うことを学ぶのです。

【3】 12使徒
 「12弟子」は同時に「12使徒」とも呼ばれています。「使徒」とは「遣わされた者たち」という意味です。彼らを遣わすのはイエス様です。イエス様の権威によって彼らはイエス様を知らない人々のところに遣わされていきます。そこで福音を伝え、イエス様のみわざを行うためです。
 イエス様によって救いの恵みをいただいた私たちもイエス様の権威によって家庭へ、職場へ、学校へ、地域へと遣わされていきます。そのような「派遣意識」をもつことはとても大事です。
時々私たちは自分の置かれた境遇や現実を受け入れられない時があります。私たちは自分の置かれた境遇の厳しさを思い、「なぜこんなところに!」と不満をこぼしてしまうことがあります。そんな時に必要なのがイエス様からこの場所に遣わされてきた、との健全な派遣意識です。そこで私たちは現実を受けとめ、積極的にこの世と関わり、この世で神の祝福をもたらす者として主とともに歩むことができるのです。

【4】 むすび
 神に選ばれて遣わされる者として、私たちは自らの力不足を感じることがあるかもしれません。しかし神は、有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者、見下されている物、無に等しい者を選ばれました(Ⅰコリント1の27)。取るに足りない私たちを通して神の偉大さが現わされるためです。
 そしてイエス様は言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるためです(ヨハネ15の16)。」 私たちを選んでくださった主が私たちを遣わし、私たちを通して実を結ばせてくださいます。いろんな方々と出会わせてくださり、そこでみわざを行われます。
 私たちも弟子として、イエス様からしっかりと学びましょう。同時に使徒としてしっかりと遣わされてまいりましょう。

【祈り】
 遣わされたところで祝福の基となれるように、小さな者を支え、強め、用いてください。