22.12.25説教要約

2022年12月25日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

【1】 闇
 キャンドル、イルミネーション、ダビデの星・・・クリスマスは闇の中に輝く光を味わう季節です。どうして私たちはクリスマスになると闇の中に光を輝かせたくなるのでしょう。イザヤ書9章2節のみことばが元になっていると考えられます。

「闇の中を歩んでいた民は 大きな光を見る。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に 光が輝く」

 当時のイスラエルの民は「闇の中を歩んでいた民」でした。それがどのような闇であるのか、なぜ闇の中を彼らは歩むようになったのか、イザヤ7~8章で私たちは学んできました。
 7章でイザヤは南ユダ王国の王アハズの下に遣わされ、神から託されたメッセージを伝えました。それは「気を確かに持ちなさい」「恐れてはならない」「信じなさい」「求めなさい」とのメッセージでした。アッシリア帝国の力に拠り頼もうとするアハズに向かって、目に見えない神に信頼するように励ましました。
 8章でイザヤは南ユダ王国の民の下に遣わされ、やはり神から託されたメッセージを伝えました。それは「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」とのメッセージ。民が信頼を寄せていたアラムと北イスラエルの連合軍は、アッシリアによってあっけなく滅ぼされてしまうという警告のメッセージを伝えることによって、やはり目に見えない神に信頼するように彼らを励ましたのでした。
 しかしその結果はどうだったでしょうか。王も民も結局は神に信頼することができずに、人間の力に拠り頼んでしまいました。それゆえに北イスラエルはアッシリアに、そして南ユダもその後バビロン帝国によって滅ぼされてしまいました。
 イザヤがあれだけ強く神に信頼するように語ったのに、なぜ王も民も神を信じることができなかったのでしょうか。それは直面している問題があまりにも大きかったこと、それゆえに心が不安や恐れに捕らわれてしまったからです。私たちも心が大きな不安に捕らわれると、なかなか神を信じることができません。むしろ、目に見える人間の力にすがってしまいたくなるのです。
 これくらいの苦難を味わえばイスラエルは真剣に神を求め始めるのではないでしょうか。しかし、そうはなりませんでした。彼らはそのような暗黒の苦しみの中にあっても神に求めずに、霊媒や口寄せに救いを求めたのです(8の19)。そこに彼らの本当の闇がありました。時代的にも暗闇の時代でしたが、それ以上に彼らの霊的状態が闇だったのです。
 私たちは自分の罪の結果として苦しみにあったとしても、それでも神をなかなか求めないものです。最後まで神に反抗し続ける性質をもっています。光である神を歓迎しているようで、心の底では光を拒んでいることが多いのです。ヨハネの福音書に「自分の行いが悪いために、人々は光よりも闇を愛した」と記されてある通りです(ヨハネ3の18)。実は私たちは光を憎み、闇を愛しているのです。

【2】 光
 しかし闇の中を歩んでいた民は、やがて大きな光を見ます。その光を見る時がやってきます。そしてその光を見るところから救いのみわざが始まっていくことがわかります。
 この光は「大きな光」と記されてあります。どれだけ大きな光なのでしょうか。第一にそれは、私たち人間の辱めを栄誉に変えてしまうくらい大きな光です。辱めを受けたゼブルンとナフタリの地、異邦の民のガリラヤは栄誉を受けました(1)。この地はアッシリア帝国に最初に占領され、多くの虐げを経験し、その後も異教的な影響を強く受け続けました。霊的にも堕落したその地が、最初に慰めを受けたのです。
 さらにこの光は「死の陰の地に住んでいた者たち」に永遠のいのちという希望を与える光です(2)。「死の陰の地に住んでいた」とは、死の現実の中に捕らえられ支配されていたという意味です。そんな死の束縛と支配からの解放と救いを、この光は与えてくださることがわかります。

【3】 救い主
 この光はどのようにしてやって来るのでしょうか。人々はこの光をどのようにして見るのでしょうか。「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる(6)」。イエス・キリストこそは、ここで預言されていたところの大きな光だったことがわかります。
 この「みどりご」は平和の君と呼ばれ、平和をこの地にもたらす王です。その平和はどこにやって来るのでしょうか。私たちにやって来ます。この「みどりご」は、「私たちのために」生まれ、「私たちに」与えられました。つまりこの光に強く照らされ、この大きな光を見るのは私たち一人ひとりです。
 闇の中を歩む私たちは果たして、この大きな光を見たでしょうか。この大きな光は今も私たちの上で強く輝いています。この光に目を向けながら私たちのために生まれ、私たち一人ひとりに与えられた救い主イエス・キリストを、私たちはしっかりと自分の心にお迎えしましょう。