神が私たちとともにおられる         イザヤ書8章1~10節

2022年12月18日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 預言者イザヤが活躍した時代とは、イスラエルが強力なアッシリア帝国の脅威に脅かされる時代でした。そのような国際情勢の中、南ユダ王国のアハズ王はアッシリアに拠り頼み、一方で民はアラムと北イスラエルの同盟関係に期待を寄せていました。7章でアハズの下に遣わされたイザヤは、8章ではイスラエルの民の下に遣わされようとしています。

【1】 神のすみやかなさばき
 神はイザヤに不思議な方法でメッセージを託そうとされました。一つの大きな板を取り、その上に普通の文字で「マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため」と書き記させたのです(1)。誰もが読める簡易な文字で大きく記すことによって、多くの人々にこのメッセージが伝わるように配慮されていることがわかります。
 そして祭司ウリヤとゼカリヤを証人として、そのメッセージを証言させました(2)。神が、このメッセージをより説得力のあることばとして伝えようとされていることがわかります。
 さらに神は不思議な方法を用いられました。イザヤと女預言者(イザヤの妻)との間に与えられた男の子に同じ「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と名づけさせたのです。イザヤ自身の子どもの名前を通して、神のメッセージが発せられるという方法が、繰り返し用いられていることがわかります(7の3)。
 このように神は、このメッセージを何とかしてイスラエルの民に届けようとされました。そのメッセージの内容は「分捕り物はすばやく、獲物はさっと」という意味です。そしてこのことばがもうすぐ実現すると最後に語られました。「ダマスコの財宝とサマリアの分捕り物が、アッシリアの王の前に持ち去られて行く(4)」こと、つまり北イスラエルはアッシリア帝国によって滅ぼされてしまう事実と、その日が迫っていることが預言されたのです。
 神はこのメッセージにより目に見える人間の力に拠り頼むことの愚かさを警告し、目に見えない神に信頼することの大切さを訴えられました。神は今も私たちに「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と警告を発しておられるのではないでしょうか。この世の人間の力に拠り頼むことがいかに危険で愚かであるかを、私たちは悟らなければなりません。

【2】 アッシリアの脅威
 北イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされてしまうという事実は、南ユダ王国の民にとっても、他人事で済まされることではありませんでした。なぜならイザヤは次に、そのアッシリア帝国が南ユダ王国にも襲来する事実を預言したからです。その様子が「強く豊かな大河の水」が南ユダの領土に勢いよく流れ込んでくる情景によって、描写されています(6~8)。
 その水は「すべての運河にあふれ、すべての堤を越え(7)」、「ユダに勢いよく流れ込み、あふれみなぎって首まで達する(8)」ことがわかります。そしてアッシリア帝国の勢力は、まるで鳥の広げた翼がその地をおおい尽くすように、南ユダ王国の領土全体を吞み込んでしまうことがわかります(8)。
 なぜこんな悲劇が起こってしまうのでしょうか。その原因はイスラエルの民が「ゆるやかに流れるシロアハの水を拒み、レツィンとレマルヤの子を喜んだから(6)」、つまりイスラエルの中にいつもおられた神への信頼を拒み、アラムと北イスラエルの王の権力に拠り頼んだからでした。
 私たちの人生は、選択と結果の積み重ねによって形成されてゆきます。よい選択をしてよい結果を得ることにより私たちは少しずつ高ぶり、わるい選択をしてわるい結果を得ることにより私たちは少しずつ卑屈になっていきます。いずれにせよ、私たちは正直さ素直さを失い、自分の力にすがり、神に信頼できなくなってしまうのです。そして罪とその結果に心が支配され、喜びを失い、心は思い煩いでいっぱいになってしまうのです。

【3】 インマヌエルの勝利
 しかしそんな苦しみの中にあって最後の希望が残されていることがわかります。イスラエルは何と「インマヌエル」と呼ばれています。自分の愚かさと罪深さのゆえに私たちがどんなに苦しんでも、その結果にどんなに縛られても、私たちには希望が残されています。その希望とは神が私たちとともにおられること、この方が私たちの愚かさにも関わらず、私たちの味方をしてくださること、そこに私たちの希望が残されているのです。
 しかも信仰者はそのインマヌエルの主によって慰めを得るだけでなく、最後には勝利者となるように導かれることがわかります。諸国の民はイスラエルによって打ち砕かれます。イスラエルに対するあらゆるはかりごとも破られます。なぜなら「神が私たちとともにおられるから(10)」、つまり神が私たちにとってのインマヌエルの主だからです。神がインマヌエルの主である事実は、私たちに何と大きな希望をもたらすことでしょうか。
 信仰者とされたのに、今も自分の罪の現実とその結果の中で思い煩い、自分の惨めさの中で苦しんでいる人はいないでしょうか。私たちのインマヌエルの主イエス・キリストは、その罪の支配から私たちを救い出すためにこの世に来られました。この主にあって、私たちは喜び賛美する者とならせていただきましょう。