私を助け出してください          詩篇119篇153~160節

2022年11月6日 飯能キリスト聖園教会    礼拝説教要約(若井和生師)

 自然災害、疫病、戦争、経済危機・・・と苦しみが多く、深い世の中になってきました。私たちの交わりの中では健康面でこころみを受けている方々が多くおられます。誰にも理解されないような悩み・苦しみの中にあって、私たちにとっての最大の慰めは十字架の苦しみを忍ばれたイエス・キリストが私たちとともにおられること、私たちの悩み・苦しみをすべて受け止めてくださること、そして、私たちがそのイエス様にいつでも助けを求めることができることです。

【1】 苦しみの中での祈り
 詩篇119篇の著者は153節で祈りました。「私の苦しみをご覧になり、私を助け出してください。私はあなたのみおしえを忘れません」。彼はまず「私の苦しみをご覧になってください」と声を上げました。彼の苦しみをより深くしているもの、それはその彼の苦しみに目を留めてくれる人が誰もいない、という事実にありました。彼は一人で悩み苦しんでいたのです。しかし、彼は神が彼の苦しみに目を留めて、受け止めてくださることを知っていました。神が彼の苦しみに目と留めてくださることが彼にとっての慰めだったのです。
 次に彼は「私を助け出してください」と続けました。「助けて」ではなく「助け出して」と祈っています。苦しみからの解放を求めています。苦しみの中にあって彼は完全に無力でした。自分の力と努力とではどうすることもできませんでした。しかし、彼は神が彼を助け出してくれると信じていました。その神に祈ることができたのです。
 さらに彼は「私の言い分を取り上げ、私を贖ってください(154)」と祈りました。彼の心の叫びに耳を傾け、彼自身を救い出し、神ご自身のものとしてほしいと訴えています。彼は単なる苦しみからの解放を求めていたのではありません。解放されて「贖われる」こと、つまり敵の支配から解放されて完全に神のものとされることを願い求めました。
 私たちの信じる神は私たちの心の叫びに耳を傾け、私たちを敵の支配から解放し、完全に神ご自身のものとしてくださいます。主とともにおられる全き平安で私たちを満たしてくださいます。その神に私たちも救いを求めていきましょう。

【2】 苦しみの中身
 彼は何に悩み苦しんでいたのでしょうか。「私を迫害し、敵とする者が多くいます(157)。」 彼を迫害し、彼に敵対する者が多くいました。そのような厳しい状況の中にあって彼は救いを求めたのです。
 彼の敵たちは彼に「悪意を遂げよう」として近づきました(150)。彼に対して悪事を追求する者たちであったことがわかります。ロシアのウクライナ侵攻の報道と接しながら、戦争は人間を狂わせてしまうこと、そして人はとても残酷になり得るということを教えられます。人は人を虐めたり迫害したりする時に、悪い思いに支配されやすく、悪事を追求してしまうことがあります。そのような悪しき者たちの脅威に詩篇の著者はさらされ、苦しんでいたのです。
 同事に彼の苦しみは自分自身に関する苦しみでもありました。「あなたのあわれみは偉大です(156)」「主よ、あのたの恵みによって生かしてください(159)」。彼は神のあわれみと恵みとにすがっています。敵の迫害も苦しいですが、そのような迫害を受けて、みことば通りに歩むことのできないことが彼にはもっと苦しいことでした。敵に対する憎しみや復讐心やよくない思いに捕らわれてしまい、神のあわれみや恵みにすがらざるを得ない状態でした。
 厳しい状況の中にあって、その状況のせいにしてしまわない、まっすぐに自分と向き合い、その自分を神の前に差し出している彼の信仰を私たちは教えられます。私たちの罪とのたたかいはいつでも続いていくのです。

【3】 みことばによって生かされる
 そんな彼が頼りにしたのが、みことばでした。「私はあなたのみおしえを忘れません(153)。」 神に救いを願い求める祈りの中で、彼はみことばに対する信頼を明らかにしています。
 そして彼がこの段落で繰り返し求めていること、それは「生かされる」ことでした。「あなたのみことばにしたがって、私を生かしてください(154)」「主よ、あなたの定めにしたがって、私を生かしてください(156)」「主よ、あなたの恵みによって私を生かしてください(159)」。彼が求めたこと、それはみことばにしたがって、神の定めにしたがって、そして神の恵みによって生かされることでした。彼が生かされるために必要だったのは、みことばであり、みことばの定めであり、神の恵みだったのです。
 私たちはみことばがなくても生きていけると思うかもしれません。しかし、みことばがなければ「生かされる」ことはありません。神のいのちに、イエス・キリストの復活のいのちに、神が約束された永遠のいのちに生かされることはないのです。
 私たちは自分で生きることを望むでしょうか。それとも、神によって生かされることを願うでしょうか。みことばによって生かされる時、私たちはどんな苦しみの中にあってもともにおられる恵みとあわれみに満ちた神を知ることができます。この方のいのちに生かされる者となりましょう。