あなたのおことばどおり、この身になりますように     ルカの福音書1章26~38節

2022年11月27日 飯能キリスト聖園教会   礼拝説教要約(若井和生師)

 今日からアドベント(待降節)が始まり、いよいよクリスマスの季節の到来です。救い主がこの世に来られたクリスマスは、人類の歴史上、最大の出来事です。しかし、この大きな出来事もマリアという少女の信仰がなければ実現されませんでした。今日はマリアの信仰に注目していきたいと思います。

【1】 御使いを恐れるマリア
 ガリラヤのナザレという町に住んでいたマリアのところに、ある日突然、御使いガブリエルが神から遣わされてやって来ました。御使いはマリアに向かって言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます(28)」。「おめでとう」と訳されていることばを直訳すると「喜びなさい!」になります。
 このような御使いの突然の訪問を受けて、マリアはどのように反応したでしょうか。「喜びなさい」と言われて、マリアは喜んだでしょうか。そうではありませんでした。「マリアはこのことばにひどく戸惑って、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ(29)。」 マリアの心の内に起こったものは戸惑いと恐れでした。そして考え込んでしまったのです。
 もし今、神が私たち一人ひとりのところに突然いらっしゃったならば、その時に私たちはどんな反応を神の前に示すでしょうか。私たちは神を喜ぶでしょうか。きっと私たちはとまどい、恐れるのではないでしょうか。
 私たちの中に、神の御前でふさわしくない部分があることを私たちは意識しているのではないでしょうか。神と会うための備えが充分にできていないのではないでしょうか。

【2】 マリアの恐れを取り除く御使い
 御使いガブリエルは、マリアの心から恐れを取り除こうとしていることがわかります。まず御使いは「恐れることはありません、マリア。あなたは神から恵みを受けたのです(30)」と語りました。マリアはなぜ、恐れる必要がなかったのでしょうか。それはマリアが神からの恵みを受け、神に受け入れられたから。
 私たちにとって神に受け入れられていることくらい、心が平安になることはありません。恵み深い神は私たちにも恵みを注いでくださっているのです。
 続けて御使いは、神から預かってきたメッセージをマリアに伝えました。それはマリアが身ごもって、男の子を産むこと。その名をイエスとつけること。その子は大いなる者となり、イスラエルを治める王となり、その支配は永遠に続くことを伝えました。いわゆる「受胎告知」です。
 この知らせを受けてマリアの恐れはさらに大きくなりました。マリアは言いました。「どうしてそのようなことが起きるのでしょう。私は男の人を知りませんのに(34)」。マリアは未婚の処女です。そのような処女であるマリアが妊娠してしまったら、人々はどう反応するのでしょうか。それは、ユダヤ社会においてはマリアが姦淫の罪を犯したことのしるしであり、マリアは処刑されなければならなくなるでしょう。それはマリアにとっては本当に恐ろしいことだったのです。
 しかし、そのように極度に恐れているマリアのその不安を、御使いは取り除いていきました。まずマリアに神の力が及び、マリアは聖霊によって身籠ることが告げられました。さらに、マリアの親戚でもあり、不妊の女だったエリサベツに男の子が与えられている事実が告げられました。
 そしてその後、御使いは語りました。「神にとって不可能なことは何もありません(37)。」 このように御使いはマリアの内にある恐れを一つずつ、取り除いていったのです。

【3】 マリアの信仰
 そのような導きをいただいてマリアは告白しました。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりに、この身になりますように(38)。」 全能の神に信頼し、マリアは神の選びを受けとめました。
 マリアは信じたのではなく、信じるように導かれました。不信仰だった彼女の恐れの中で、神の恵みを体験し、みことばに導かれて信じる者とされたのです。マリアは「私は主のはしためです」と自分のことを語っています。自分の弱さ、貧しさ、小ささをよく知っていました。そんなマリアだからこそ、偉大な神を仰ぎ、みことばに信頼することができたのです。

【4】 むすび
 神は、ご自身に信頼するその信仰を通して、みわざを成し遂げます。私たちの信仰に応じて、神のご計画を前進させます。私たちにも信仰が求められているのです。
 ただし信仰とは、私たちの恐れや戸惑いに蓋をして、クリスチャンらしく振舞うことではありません。とまどった状態のまま主を仰ぎ、そこに注がれる神の恵みを体験することです。そしてそこで語られるみことばに耳を傾けることです。その時に神は不信仰な私たちを信じる者にしてくださいます。そして、そのような私たちの信仰によってみわざが前進していくのです。
 不安や恐れの中で主なる神と出会おうではありませんか。そのようにして、主が私たちとともにおられる恵みを、私たちは体験していく者でありたいと思います。