よく練られたことば           詩篇119篇137~144節

2022年10月23日 飯能キリスト聖園教会    礼拝説教要約(若井和生師)

 みことばの素晴らしさを様々なことばで言い表してきた詩篇の著者が、今日の段落においては「あなたのみことばはよく練られている(140)」と語りました。「練られていることば」とは、「火で練り清められたことば」という意味です。丁度、金や銀が火の中で精錬されて清められていくように、みことばも混じりけのない純粋な神のことばです。そこには神のご性質が豊かに表されています。
 詩篇の著者はこの段落において、その神のご性質を「義」ということばで表しました(137、138、142、144)。みことばには義なる神様のどんなご性質が表されているのでしょうか。

【1】 真っ直ぐなさばき
 第一に、神のさばきは真っ直ぐです(137)。神は必ず真実なさばきをなされます。詩篇の著者はこの時、敵から辱められ、虐げられ、蔑まれている状態でした。そのような苦悩の中にあっても耐えることができたのは、神の真実なさばきを彼が知っていたからでした。
 私たちの経験する苦しみの多くは社会の矛盾や不公平から来ます。「なぜ悪者の道が栄え、裏切り者が安らかなのか(エレミヤ12の1)」とかつて神に訴えた預言者エレミヤの訴えは、今日の私たちの訴えです。もし神がいなければ、絶望するしかないような悲惨な状況が今、世界中に広がっています。
 しかし聖書は神がおられると主張しています。そして神は必ずさばきをなされます。パウロは「自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい(ローマ12の19)」と語っています。復讐は神のなさることです。神が必ずさばきをなされます。その約束のゆえに、私たちはすべてを神に委ねることができるのです。
 
【2】 信じる者の味方
 第二に、神は信じる者の味方です。詩篇の著者は敵から蔑まれている時にも「あなたの戒めを忘れてはいません(141)」と証言しました。苦難と窮乏が彼に襲いかかっても、「あなたのおおせは私の喜びです(143)」と告白しました。彼にとってみことばは、蔑まれている時の心の支え、苦難と窮乏の中での喜びであったことがわかります。しかも、彼は神のさばきを意識しながらも平安です。みことばによって神が彼の味方であることを、彼は信じることができたからです。
 私たちも実は神にさばかれなければならない一人ひとりです。私たちは自分のことを棚に置いて人のことをとやかく批判することはできません。しかし、そんな私たちなのに神が味方をしてくださるのはどうしてなのでしょうか。それは私たちが神を信じているからです。その信仰のゆえに神は私たちの味方なのです。
 パウロは「義人は信仰によって生きる(ローマ1の17)」「信仰によって義と認められる(ローマ3の28)」と教えています。私たちは自分の努力や行いによって義と認められるのではありません。ただイエス・キリストを信じる信仰によってのみ、神の恵みのゆえに義と認められるのです。そして神は神を信じる者の味方です。この方を信じる信仰によって私たちは圧倒的勝利者とされるのです(ローマ8の37)。

【3】 永遠の義
 第三に、神の義は永遠です。詩篇の著者は「あなたの義のわざは永遠の義(142)」、「あなたのさとしは永遠に義です(144)」と語りました。神様も、神のことばも永遠に変わらずに正しいことがわかります。それは永遠に信頼できることばである、ということです。
 すべてのものが変わってしまうはかない世の中です。一時的には華やかに栄えたように見えたとしても、人は必ず死ななければなりません。この世もどんどん変わっていきます。その中で唯一変わらないのが神様であり、神のことばであるみことばです。それゆえに私たちはみことばに私たちの信頼を置くことができるのです。
 さらに神は「義のわざ」を私たちに継続的に行い続けます。みことばは私たちの内側に働いて、私たちを内側から造り変えていきます。私たちは栄光から栄光へとキリストの姿へと変えられていくのです。「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです(Ⅱテモテ3の16~17)。」 みことばは私たちに救いをもたらすだけではありません。教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。そして、すべての良い働きにふさわしく私たちを整えてくださいます。そのようにして私たちは栄光から栄光へと変えられていくのです。

【4】 むすび
 最後に詩篇の著者は「私に悟らせ、私を生かしてください(144)」と、祈りました。彼に悟らせてくださるのも、生かしてくださるのも神ご自身です。私たちもぜひ練られたみことばによって、悟らせていただきましょう。そして生かしていただきましょう。そのようなみことばの恵みを豊かに体験させていただきたいと思います。ぜひ、みことばを愛する者となろうではありませんか。