いつくしみ深きイエス        マタイの福音書9章32~36節

2022年1月30日 飯能キリスト聖園教会 礼拝説教要約(若井和生師)

 マタイの福音書の特徴はイエス様に関する出来事を、マタイがテーマごとにまとめて記していることです。5~7章は「山上の説教」として「イエス様の教え」が集中的に記されています。8~9章は、苦しむ人々のためになされた「イエス様のみわざ」が集中して記されています。今日の箇所はこれまでの箇所のまとめがなされている箇所です。

【1】 すべての町や村を巡って
 各地でイエス様によるみわざがなされた結果、人々の間に二つの反応が起こってきました。イエス様のみわざを喜んで受け入れた人々、イエス様に反発した人々、その両方の反応が引き起こされました。
 今日の箇所では、イエス様が悪霊につかれて口のきけない人から悪霊を追い出された結果、その人は口がきけるようになりました。そのようなみわざを見て群衆は「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と喜んで受け止めた人々もいました。しかしパリサイ人たちは「彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と不満をこぼしました。
 イエス様はもちろん悪霊によって悪霊を追い出したわけではありません。神の力が働いた結果、悪霊はその人から出ていきました。しかし、彼らはそれを認めたくないのです。どんなに素晴らしい神様の働きがなされても、不信仰な人はそれを認めたがらないのです。
 そんな反発を受けながらもイエス様はご自分の働きを止められることはありませんでした。それからイエス様はすべての町や村を巡って、福音をお伝えになりました。会堂で教えて御国を宣べ伝えたり、あらゆる病気やわずらいを癒されたりしました。「すべての」町や村です。すべての人々に福音を伝えようとしておられるイエス様の強い思いが伝わってきます。
 私たちの神様はすべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます(Ⅰテモテ2の4)。すべての人々に福音が伝わるように、私たちは祈り励んでいかなければなりません。

【2】 イエスのこころ
 なぜイエス様はこれほどまでに熱心に福音を伝えようとされたのでしょうか。その動機はどこにあったのでしょうか。それはイエス様のあわれみにあったことがわかります。
 イエス様は群衆を見て深くあわれまれた、と36節に記されてあります。「深くあわれまれた」と訳されることばは、「はらわたがちぎれるような痛み」を表すことばで、苦しんでいる人々の姿を見てイエス様が自分の痛みとして、彼らの痛みを受けとめられたことを表しています。人間の同情とは全く違うレベルのあわれみが、ここに示されています。
 なぜイエス様は群衆を見てあわれまれたのでしょう。彼らが羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れていたからです。イエス様には群衆が「羊飼いのいない羊の群れ」のように見えました。羊飼いのいない羊の群れ程あわれな集団はありません。羊は目がよく見えず先が見通せないので、すぐに迷子になってしまいます。何かに躓いて倒れても起き上がらせてくれる人がいません。さらに狂暴な狼の餌食にすぐにされてしまいます。そんな羊たちのように、彼らは弱り果て倒れていたのです。
 なぜ彼らはこのような状態になってしまったのでしょうか。それは彼らが羊のようにさまよい、自分勝手な道に向かっていったからです(イザヤ53の6)。つまり自分たちが神に背き、反逆し、敵対したからです。よって彼らは神の御怒りを受けるべき者たちでした。しかし、その御怒りを受けるべき者たちだった彼らを、イエス様は自らの腹を痛めてあわれまれたのです。それは信じられないことです。驚くべき愛です。イエス様の教えとみわざの大元には、このようなイエス様の心があったことを私たちは覚えたいと思います。

【3】 宣教に必要のもの
 「イエス様を信じれば問題は解決します。」 そんなサクセス・ストーリーを好む傾向が、私たちにはあるのではないでしょうか。それが福音であると思っている時もあります。しかし、そのようなメッセージは本当に苦しんでいる人の心には響かないのではないかと思います。東日本大震災の時、被災の現場で大きな喪失感に苦しんでいる人々に向かって「信じれば解決する」などと、私はとても言えませんでした。それは聖書のメッセージではないように思いました。
 何か問題が起こるとすぐに解決を求めやすい私たちです。しかしその苦しみと痛みのその中に主がともにおられることを私たちは覚えたいと思います。その苦しみを担い、ともに痛んで下さる方が私たちをあわれんで下さる恵みを深く味わいたいと思います。そこにこの世にはない主が与えて下さる慰めと平安があるのではないでしょうか。
 私たちはどれだけ人々の姿が見えているでしょうか。人々が抱えている重荷や悩みを理解し、自らの痛みとして受け止めているでしょうか。伝道で大事なのは技術や方法だけではありません。私たちがキリストの心をもっているかどうかです。ぜひ私たちの内にイエス様の心を養っていただこうではありませんか。